合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

お詫びと訂正

2012-04-15 18:55:14 | インポート

 先般≪松竹梅の剣 再考≫と題して、以前に掲載した≪松竹梅の剣:動画付き≫に関し、道友Z氏のご指摘により、松と竹の順番を取り違えている可能性が高いことをお伝えしました。

 しかしその後、日頃お世話になっているW氏より、当初のままで良いのではないかとご指摘いただきました。その際W氏がお示しくださった某武道誌には、引土道雄先生伝の松竹梅の剣が写真で紹介されており、そこではわたしがここに掲載した動画と同様の順番になっています。

 それと相前後し、こちらも黒岩先生に教えを受けたH氏からは、氏の備忘録にはやはりZ氏同様わたしの記憶とは異なる順番で記されていることをお教えいただきました。

 以上のように、二通りの解釈があり、その当否を検証できない状況を鑑み、誠にお恥ずかしい限りですが、このたびの(4月13日付け)ブログ本文を一旦削除させていただきました(もともとの143≫松竹梅の剣は引き続き掲載しております)。http://blog.goo.ne.jp/gasyojuku/d/20101206

 そのようなわけでございますので、既に削除ブログをご覧になってしまった皆様には重ね々ねのお詫びを申し上げ、貴重なご助言を賜りました道友各位には心より御礼申し上げます。

管理人 敬白

 


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
管理人様、こんにちは。 (寿陵余子)
2012-04-16 20:55:35
管理人様、こんにちは。


突然で恐縮ですが、松竹梅の剣について自分なりに考えましたので、是非ともご意見を聞かせて頂けませんでしょうか。


大先生の説かれる勝速日をもとに考えますと、
竹…相手の真中心への(技術としての)入身。武術の根本原理。
松…竹の間を外しての動きであり、竹の原理(竹の気と表現して良いものでしょうか)を含む。合気道の原理。魂魄(水火)の打ち揃った武。勝速日。
梅…松の気(竹の原理を含む)を消しての入身技法。ここに松竹梅すべての気が揃う。

竹は魄的な武。松は魄の土台に魂を据えた合気道の武。梅は晩年の相手をすり抜けるような、大先生の入身投げの様に、武でありながら殆ど芸術に近い魂の武、というイメージです。

大先生の技は竹→松→梅という変遷を辿っているように思います。

大先生の説かれる、松竹梅は三元とも密接に絡み合っており、複雑な多重構造を成している様なので完全に区分は出来ませんが、武術としての松竹梅の剣には以上の様な原理が働いているのではないかと考えます。


極力簡潔を期したため、文意不明瞭の点はご容赦下さい。
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寿陵余子様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2012-04-21 16:03:27
寿陵余子様、こんにちは。

ご投稿を公開するのをうっかり忘れておりました。ごめんなさい。

寿陵余子様は大本やその他による松竹梅に関する教えをご存じの上でご自身の見解をお示しになられているものと拝察いたします。
わたくしの聞きかじりによれば、竹は地上天国実現のための神武、松は調和のとれたまつりごと、梅はその教えを意味するともいわれますので、そういう順番で大先生ご自身が変化してこられたのではないかというのはなかなかのご明察かと思います。
なお、松竹梅の剣を実行してみると、刀と刀がぶつかりません。これは気結びの剣も同様で、そのあたりにも何か大先生の意図するものがあるように思われます。
そのようなことを探るのも稽古の楽しみの一つになっております。
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管理人様、こんにちは。 (寿陵余子)
2012-04-23 19:21:53
管理人様、こんにちは。


たしかに松竹梅にはその様な意味もあると、大先生は仰っていますね。
そう考えますと梅に至って、神武によって真釣り合わせた(調和のとれた)政治(まつりごと)を行い、その教えを広めるという合気道の在り方を端的に表しているかの様ですね。


つまり「三千世界 一度に開く梅の花 二度の岩戸は 開かれにけり」と道歌に詠まれた通り、大先生は合気道や「合気の稽古をやめた」ときに残ったと仰った松竹梅の剣を「神世之春」を実現する手段と考えていたのかも知れません。


気結びの剣や松竹梅の剣が音無の剣であることは、武でありながらぶつかり合わない調和と、切れども切らず、突けども突かぬ許しの境地を端的に表しているのでしょうか。組太刀同様、大変難しい命題ですね。
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寿陵余子様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2012-04-24 10:32:19
寿陵余子様、こんにちは。

大先生は、哲学は確固としたものをお示しになられていますが、技法については、良く言えば自由自在、失礼を承知で言えば行き当たりばったりで(あるいはご自身の技法変化について釈明なさらなかった)、当時のお弟子さん方もいろいろ苦労されたようです。
松竹梅の剣についてもあまり詳しい説明はないようで、そこは、どうせ言ってもわかるまいから、後に続く者が自分の力で解釈せよ、ということなのでしょう。
実はそこにこそ、わたしたちの苦労や楽しみがあるのだと思います。それを通じて、借り物ではない、しかも根本を誤らない理合、技法を獲得できたらこんなに嬉しいことはありません。
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