前回その1では、困難な道でも覚悟を持って進み、まずはしっかりした技法を体現すべく努力しようということを述べました。中途半端な技術のまま精神論をぶちあげても説得力がないと考えるからです。
もちろん技法の完成は容易なことではなく、ほとんどの場合そこまではたどり着かないでしょう。ですからそれを実現してからということでは、いつまでたっても何も言えないということになります。ここのところは何らかのレベルで妥協することも必要でしょう。
ではその妥協のレベルとはどの程度のものでしょうか。わたしはそれを、技法の虚実を理解できる段階だと思っています。以前に述べたように、通常稽古されている合気道の技法は≪虚≫の技法です。その陰には≪実≫の技法が隠されていて、そこでは武術としての合理性が遺憾なく発揮されます。=参考 15≫ 《ウソ》http://agasan.no-blog.jp/hitorigoto/2007/04/19/index.html=
そのことに自ら気づく人というのは尋常の才能ではないことは明らかです。みんながみんなそのような才能を持ち合わせているわけではないので、わたしたち一般人はそれに気づいた人に教えてもらえばよいのです。ただしそれを知っただけでは単なる知識に過ぎず、上で記したように『理解』するためには、その仕組みを知った上で技法を表現できるだけの修練を積む必要があります。そこまで行けば技法上の多少の巧拙はあったとしても、術者としては一人前ではないでしょうか。そこではじめて武道に携わる者として、説得力のある武道哲学や道徳論を展開できるのだと思います。
ということを前提として、さてそれではわたしたちが展開すべき哲学や道とはどのようなものでしょうか。思いついたものをなんでも勝手に言えば良いというわけにはいきません。わたしたちは合気道家ですから、やはり大先生が残された技法とたくさんのお言葉にもとづき、その理想の実現にかなう言動をすべきでしょう。
道徳や倫理にかかわる言論は世の中にたくさんあります。仏教の経典にも、中国の経書にも、キリスト教の聖書にも、そのほか世界中に先人の哲学が残されていて、言っていることを全部守ったら身動きがとれないほどの教えがあります。そうであれば、あえて合気道の哲学などというものはいらないのではないかと思わないわけでもありません。
それはそうです。生きていく上での哲学を求めるのなら、手近なところに宗教団体も道徳実践団体もあります。しかし、わたしたちはそのようなアプローチではなく合気道家という方法を選んだのです。そこで開祖(大先生)の教えに出会ったのです。
大先生はとにかくいろいろな言行を残されました。数多くの道歌からも大先生のお姿をしのぶ事ができます。わたしはその道歌の一つに合気道の最高の思想を見るものです。それは『美しき此の天地の御姿は主のつくりし一家なりけり』というものです。結局、大先生はこれをおっしゃりたくて合気道を作り上げられたのではないかとさえ思うのです。これは、美しいこの世界、その森羅万象とそこに住むわたしたちはみんな家族である、ただそういうことを言っているに過ぎませんが、これほど開けっぴろげで気取りがなく、勇気の湧いてくる言葉は、そうはありません。そして、この世界はわたしたちを超える大きな存在によって造り与えられたものであるが、そこに存するすべてのものを慈しみ、守り育てるのはわたしたちの仕事だということをも諭しているように思われます。
それでは、わたしたちは合気道の何によってそのような思想を体現すればよいのでしょう。結論を言います。普段の稽古を普段通りにやっていればそれでよいのです、ちょっとだけ心を広くして。そこで、目の前にいる人、つまり稽古相手を大切にするのです。
わたしがまだ白帯を締めているころ、稽古で手首を傷めたことがあります。当然、しばらくのあいだ稽古ができませんし、それは稽古相手も同じことです。そのとき、合気道は二人でするものだと、しみじみ思いました。こんな当たり前のこと、ケガをしないとわからないというのは、いささか情けなくも思いましたが、とても大事なことに気づいたという喜びも感じました。
自分と相手、これは人間関係の最小単位でしょう。これにもう一人加わって三人になると、これで社会と呼べる最小構成単位になります。そこから先は何人になろうとも社会であることに変わりありません。ですから、まずは目の前の人を大切に思う心を養うことで、最終的には大先生のおっしゃる『一家』に至るのです。これこそが、わたしたちが合気道を通じて世界中で愛と和合を実現しようという壮大な試みに関わっている証です。
そして忘れてならないのは、その教えの実践を自らの責務として、合気道を積極的に広める努力を重ねられた二代道主吉祥丸先生であり、全国に散らばり、あるいは海外に雄飛された幾人もの先輩合気道家の方々です。前回項で『他人にわかってもらうことが修行の目的ではありません。しかし、開祖のお示しになった理想に一歩でも近づくためには多くの理解者を得ることも大事な条件です。』と述べたのも、それと軌を一にするものです。
わたしたちは(少なくともわたしは)偉人でも巨星でもありませんが、身の丈分の働きはできます。そういう人が世界中に存在すれば想像以上に大きな力になるはずです。歴代道主と先人たちの努力は、そういうかたちで実現されていくことになります。
※本ブログで告知しておりました10月30日の特別講習会は、遠方からのご参加もいただき、無事終了いたしました。参加者の皆様はもちろんのこと、ご興味を向けていただいたすべての方々に厚く御礼申し上げます。