好きでやっている合気道ですが、長いこと続けてこられた一番の理由は、わたしの場合は優れた指導者との出会いです。もちろんそれとは別に、合気道自体になんらかの魅力があったことは当然です。しかし入門時に、そのことが明確にわかっていたわけではありません。続けているうちにだんだんわかってきたのです。今回は、よそ様ながら柔道の現状に触れながら、合気道の魅力を探ってみようと思います。
講道館柔道創始者嘉納治五郎氏と合気道開祖植芝盛平先生との間に親交があったことはよく知られています。嘉納氏が合気道に武道の理想の姿を見出し、若手柔道家を大先生のもとに預けたりもしています。
柔道は教育者である嘉納氏が青少年の体位向上と精神修養を目的に、柔術を教育の場で活用すべく独自の工夫を加えて作り上げた、きわめて教育的配慮の行き届いた武道です。爾来その価値が大いに認められ、世界的スポーツのJudoとして大きく発展した反面、しかしながら、当初の志からは大きく変容してきたことも事実です。その良否を云々するのはこのブログの役割ではありませんが、変容の一番の理由が試合制度にあることは疑いがありません。今や、競技スポーツであり、見せるスポーツとなりました。その結果として、勝つか負けるかにだけ関心を呼ぶ今の柔道が、創始時に嘉納氏が夢見た姿とは大きく異なるであろうことは想像に難くありません。
わたしは、競技者自身が勝敗にこだわるのは間違いだとは思いません。だれだって負けるよりは勝つ方が嬉しいし、修行の進み具合を判断するひとつの目安ではあります。しかし競技には本人だけではない、第三者の思惑も見え隠れしてきます。ここが武道の精神性とは相容れないところだと感じるのです。修行者の情熱を金儲けにつなげるな、個人の努力を国威発揚の道具にするな、とまあこういうことを思ったりするわけです。
もっとも、試合のない合気道が無条件に素晴らしいと手放しに喜べないところが、わが合気道の課題でもあります。私自身は競技化に関心はありませんが、競技化を模索している人たちが現状の合気道の問題点をあぶり出す役割を果たしていることは明確です。その意味で彼らの存在は貴重です。そこで浮き彫りにされた問題点(間合い、拍子、当身や崩しなど技につながる技術、そして技そのものの実効性等に関する考え方)は、わたしたちに向けられた質問状ですから、しかるべき回答を用意せねばなりません。
このブログでは、その辺のところを意識して書いている文章もだいぶありますが、わたしとして、それらについての工夫を実際の稽古に十分に組み込んでいるかといえば、まだ熟度が足らないと答えるしかありません。課題をのり越えるためといいながら、普段の稽古と離れた突拍子もないことをやり始めても、それは一過性のもので終わるのが目に見えています。未熟に未熟を足しても完熟にはなりません。
下手な仕立て屋が作った背広みたいに、まるで体に合わないものを着こんでも、いずれほころびが出てきます。ですから、新たな工夫であっても使い込んだ普段着のように違和感がないことが絶対条件であり、そのための試行錯誤がいましばらくは続くことになります。新たな試みが既存のものと一体になるには熟成のための時間が必要なのです。
ただ、新たな試みといっても、もともと合気道のカタに織り込まれているもので、これまでは一部の慧眼を備えた合気道家(もちろんわたしは含まれておりません)を除いてその意味に気づいていなかっただけのことです。ですから決して異質なものではありません。ひとつヒント(バックナンバー64)が与えられると、次から次にカタの意味がわかってきます。この辺にも稽古の面白さがあるかもしれません。
さて、競技に重きを置くスポーツは、勝てなくなれば練習を続けるモチベーションが弱くなり、若くして引退したり指導者に転進するのが一般的です。その点、武道にはカタ稽古というものがありますから、工夫次第では相当年齢がいっても現役の武道家として続けることができます。ショーアップされた興行的スポーツは別として、やはりスポーツも武道も、自分がやってなんぼの世界です。どっちみち合気道は、ひとのやるのを見ていたってなんにも面白くありませんから。
そういうわけで、やって楽しい武道でありますと、これが合気道の特色の一つということに今回はしておきます。次回、また違う武道を引っ張り出してきて、合気道の別の特色を考えてみます。