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合気道ひとりごと

合気道に関するあれこれを勝手に書き連ねています。
ご覧になってのご意見をお待ちしています。

242≫ 良く生きるということ

2014-07-16 14:25:12 | インポート

 新聞でまた興味をひかれる記事がありました。13日付けの朝日新聞スポーツ欄、日本ホッケー協会の内紛でリーグ戦が例年より3ヶ月遅れで開催されるという記事です。そのこと自体はわれわれ部外者のあずかり知らないところですから、とやかく言うべきことではありません。わたしの気をひいたのはそこではなく、ある日本代表選手が『試合ができず、何のためにホッケーをやってるんだ、と思っていた。うれしい』とコメントしていたことです。

 そのコメント自体もなんら問題ありません。むしろ、競技スポーツの目的を明らかにしてくれているという点で重要な発言だと思います。

 つまり、試合のあるスポーツで試合ができなくなると、途端に練習する意味がなくなってしまうということをこの選手は言っているわけです。確かにそうかもしれません。競技スポーツの様式自体が日々の練習の成果を試合で発揮するようにできているからで、だからこそやってて楽しくもあれば充実もするのです。

 それなら、同じことを武道でも言えるのではないかと思われるかもしれません。それもまた一面の真実です。種目によっては、ある程度年齢がいって現役の競技者としての能力に限界を感じ、その時点で武道と縁が切れてしまう人も多く、それはそれで仕方がありません。 

 しかし、幸いにもわたしたちは元々試合のない合気道を選んだ時点で、武道を通じて生きることの意義を証明できる立場に立ったのです。なにしろ引退というのがありませんから、生涯現役です。合気道をはじめとする武道というものはただの娯楽でもないし生活の装飾品でもありません。武道はそれ自体が人生そのものになり得るのです。

 話が飛躍しますが、1977年に起きた、いわゆるダッカ日航機ハイジャック事件をご記憶の方も多いでしょう。そのとき、人質救出にあたっての取引で『ひとりの生命は地球よりも重い』と言って、極左テロ集団赤軍派の服役中のメンバーやそれ以外のシンパ(同調者)の服役者計6名につき、超法規的措置で釈放ならびに国外逃亡を認めたのは当時の福田赳夫内閣総理大臣でした。身代金600万ドルはこの際泥棒に追い銭と言うべきでしょうか。

 人質となった人たちのことを考えればやむを得ざる判断であったのかもしれませんが、そのときの日本政府の対応に関し『テロの連鎖を招く』と特に外国から批判があったのも事実です。

 それはそれとして、わたしはこの《ひとりの生命は地球よりも重い》という言葉が、良くも悪くも以後の日本人の価値観に大きな影響を及ぼしていると感じています。本当に人命よりも大切なものはないのでしょうか。

 そのようなことを疑問形で言っている時点でわたしの立ち位置が常識とずれていると思われるかもしれません。それは甘受します。 

 もちろん、理不尽な理由によって命を失うようなことがあってはいけません。しかし、なんでもかんでも人命が第一で、それ以外の選択肢はありえないのでしょうか。だとすると、命懸けという言葉はどのようなことを指すのでしょう。命懸けとは命と引き換えにしても守るべき何かがあるということだと、わたしはずっと思ってきました。

 文字通り、命懸けの人は一所懸命の人です。より良く生きようと努力する人です。ですから、深い思慮も無く人命第一と簡単に言ってしまう昨今の表層的道徳観はかえって生きることの価値を押し下げているのではないかとも思うのです。

 さて、戦闘法としての誕生の経緯から、生と死を思わない武道はありません。この《道》というのは人として歩むべき方策のことです。その道を名に含む武道は良く生きるための手段です(戦闘だって良く生きるための手段だったのですから)。

 その手段を駆使して意義ある生を生きたあとに意義ある死が訪れます。ここにおいて生と死は連続した同一線上で同等の価値を持つものです。そういうわけで、武道家の価値は死をもって終わりとはなりません。

 武道とは、武術の形を借りて己の生きかたを日々検証する行為であり、人生そのものと同義です。そういうことですから、武道においては、試合がないからといって『何のために・・・やっているんだ』という疑問や慨嘆はありません。そこがかのスポーツとの違いです。


≪ お知らせ ≫

2014-07-10 11:50:22 | インポート

 本ブログでいつもご紹介しております(故)黒岩洋志雄先生の合気道を東京で定期的に稽古できる会が発足しました。先生の最晩年まで真摯に指導を受けられたZ氏が主宰される【輪の会】(ブログにリンクします)です。

 Z氏は黒岩先生の合気道をもっとも精確に受け継いでおられる一人ですので、ご興味がおありの方は連絡をおとりになってみてはいかがでしょうか。


241≫ 浅薄な《武》の理解 

2014-07-06 16:39:43 | インポート

 わたしたちの思いとは裏腹に、いまどき武道家なんてのは普通の人から見れば浮世離れした物好きくらいにしか思われていないかもしれません。そうだとすれば反省すべきはわたしたち当事者ですが、お叱り覚悟で言えばそれは、《武》というものに対する世間の見方が皮相的だからです。

 その遠因は『武という文字は戈(ほこ)を止めると書き、争いを避けることを目指す』という、大衆受けする、あるいは能天気な字義の解釈に拠るところが大きいのではないかと感じています。これはわが国において武力保持集団(武士)の正当性を説明するために特に強調され、それが今も武道界で言い続けられているからでしょう。

 以前にも本欄で触れた記憶がありますが、《武》は戈と止とからなりますが、止という字は足や歩く、走るなどの字にも含まれることからわかるように、前に進む動作を意味します(止まるというのも前進することのひとつの形態です)。したがって原意は『戈を高く掲げ力強く前に進むこと』です。

 武は戈を止めるという意味だとの解釈も昔の中国発のようですが、彼の国では武力集団は単なる戦闘技能者とみなされ、日本の武士のような社会的地位も倫理的素養も期待されていませんでしたから、そのような啓蒙的発想はどちらかといえば一部の知識人の恣意的解釈と考えてよいでしょう。

 そんなこんなで、今のおおかたの日本人が武力あるいは武力保持者に対し、ゆがんだ期待を向けているのもむべなるかなと思われます。

 世間ではいま国の集団的自衛権に関し、かまびすしい議論が展開されています。このブログで政治的テーマを取り上げるのは適切ではないと思いますが、ただ、武道家の立場から言っておきたいことがあります。

 集団的自衛権の行使に関し、内閣はこれまでの法的解釈を改め、実行可能にする方針に転じました。大きな政策転換ですから様々な意見が出てくるのは当然でしょうし、そのことは健全な民主主義のあらわれだと思います。

 その一連の騒動のなかで、わたしがどうしても気になるのは、記者会見での質問のレベルの低さです。朝日新聞は7月4日付けの紙面において=検証 集団的自衛権=という特集記事を組んでいます。そのなかで《血を流す覚悟 語らぬ首相》という見出しで、ある記者から【(自衛)隊員が戦闘に巻き込まれ、血を流す可能性が高まる点をどう考えるのか】という質問が出されたことに対し、【安倍は「自衛隊の皆さんは危険が伴う任務を果たしている。勇気ある活動に敬意を表する」と、正面から答えなかった】と書いています。 

 そもそも刀は人を斬るために、鉄砲は人を撃つために作られたのです。したがってそれらを保持し使う能力を持った者は敵と戦うことを自分の本来の立ち位置としています。現実に戦いがあれば当然血は流れるでしょう。だからといって、現今の日本的価値観の只中で、首相が『戦闘で血を流すのは当たり前だ』と答えられるわけがないではないですか。

 ここにおいて、知識人とも目される新聞記者そして記事編集者が武力ないしは武力保持者について実に幼稚な認識しか持ち合わせていないことが明らかです。武力保持者(その指揮権者も含む)は自分にも敵の刃が向かってくることは自明の理として了解していると考えるのが常識であり、あらたまって覚悟などひけらかすこともないのです。

 そういう質問は自分の命を的にして使命を果たそうとしている人たちを愚弄しているというべきです。記者、編集者は新聞を自分の主義主張の主武器とし、あまつさえ自衛隊員を盾として利用しているに過ぎません。実に幼稚で卑怯な行為です。幼稚はまだしも、卑怯なふるまいは武道家のもっとも忌み嫌うところです。 

 ただ、考えてみるに、このような《武》に対する認識、理解度の低さは政治的、思想的立場の如何を問わず現今の日本人に共通したものです。それはたぶん、《武》の最大の理解者であり体現者でもある武道家に責任の一端があるかもしれません。つまり、競技化された武道の愛好者は競技の成績のみに目を奪われ、合気道のように試合のない武道の愛好者の関心はあくまでも個人的充足感にとどまっていて、それ以外の社会的利益にあまり寄与していないからだとは言えないでしょうか。この点はおおいに反省の余地があります。

 そういう意味で、わたしたちは武道修練の成果をなんらかのかたちで社会に反映させていく義務があるでしょう。その最終目標は自衛権云々も必要ない地上天国の建設ですが。


240≫ 達人になろうよ

2014-06-26 15:59:47 | インポート

 先週末の二日間、わたしが関係する合気道団体の講習会がありました。優秀な講師陣にまじってわたしも(わたしは別段優秀ではありませんが)講義と実技を各一時間ずつ担当させていただきました。思い返してみると、わたしはその中で『達人』という言葉を数回使っていたようです。合気道には達人養成システムが組み込まれているとか、みんな達人を目指そうといった案配です。

 武の道において達人と評される人は歴史上幾人もいますが、それでも全体からみればほんの一握りの驚異的技量を持つ人に許された称号です。その人たちと並び称されるように頑張りましょうというのですから、まともな人は『何を寝ぼけたことを言ってるんだ』と思うことでしょう。

 実際に達人になれるかなれないか、たぶん、わたしも含めてほとんどの人は極めてその可能性が小さいでしょう。しかし、それでもやはりわたしは全ての合気道家に向かってそのように言いたいと思っています。1パーセントでも見込みがあるのなら。

 なぜならばわたしたちはまがりなりにも植芝盛平翁に連なる合気道家だからです。大先生は合気道という愛と和合の武道を創り、育て上げられました。そして、わたしたちにはそれをもって地上天国(理想の社会)を建設せよとおっしゃったのです。それが達人の仕業でなくてなんでしょう。合気道家一人びとりが達人であってはじめて可能になります。

 ところで、この一年くらいの間に、わたくしが主宰を務める会に60代の方が3人(男性2人、女性1人)入会されました。子供も含めて全部で実動20人くらいの会ですから、これはとても珍しい出来事です。入会の事情はそれぞれでしょうが、それまでの社会的立場に一区切りつけ、何か新しいことを始めようと考えたときに合気道を選択していただいたことをわたしは嬉しく思いますし、その前向きな姿勢に敬意を表したく思っています。

 これまでも時々は60代の方の入会はありましたが、在来のメンバーが歳を重ねてきたこともあり、全体の年齢構成が高齢化してきました。大げさに言えば、われわれに残された時間はそう潤沢ではないのです。限られた時間で一歩でも達人に近づく、その手伝いをする義務がわたしにはあります。

 そのような状況で、ますます『達人』ということの意味を吟味してみようと考えています。まずそれは決して観念の産物ではなく、現実の身体とその動きで表されるものです。つまり、わたしたちは合気道の技法を通じて『達人』を実現させる必要があるということです。

 そう言うとなにか人間離れした能力を求められるのではないかと思われるかもしれません。もちろん誰でもできるとは言いませんが、合気道技法を正確に、精密に身体に染み込ませていけば、その一端に触れることは不可能ではありません。たとえ60代で入会した人でもです。少しでも触れることができれば『ああ、こういうことか』と納得し、限られた時間を有意義に使ったことに満足できるでしょう。それが合気道の達人養成システムです。

 ただしこのシステムは、ただ汗を流すだけの稽古や力任まかせの稽古では果実を与えてくれません。目の前で受けをとってくれる人をただ投げたり押さえつけたりしたってダメです。一つひとつの動きの意味を理解し、それを正しくトレースすることでしか成果を得られません。

 その場合、どのような動きを正しい動きというのかということが明確でなければなりません。それについて、細かいことを言えばいろいろありますし、それを全て文章でお伝えすることも困難ですから、ひとつだけヒントを申し上げます。それは取りも受けも、体の一部だけに負担がかかるということがない動きであり、その結果、投げられたり押さえられたりしている受けの人にニッコリ笑みが浮かべば大成功です。

 そのときその人はこういいます。『やられるのがわかっているのに抵抗しようとは思わないんだよね。自分は何をしているんだろうと、思わず笑ってしまった』と。


239≫ 名前と実体

2014-06-15 16:04:22 | インポート
 黒岩洋志雄先生考案の棒切れ術というのがあります。1メートルくらいの棒切れを使って合気道の動きそのままに技をほどこすもので、以前にも書きましたが、これは一時期、大澤喜三郎先生によって禁止されたいわく付きのものです〔⑱ 大人(たいじん)参照〕。ここ何回かの稽古でそれをやっているのですが、名称を短棒術とかステッキ術としなかった黒岩先生の慧眼にあらためて感心しています。

 名前というものはある事物を象徴的に表現する簡便な手段ですが、ややもすればその一面のみを強調し、他の部分の意義や存在を消し去ってしまう嫌いがあります。世の中にあるほとんどのものは必ず複数の働きを持っています。たとえば新聞紙は毎日ニュースを届けてくれるほかに、包み紙になったり焚きつけになったり、あるいは防寒や保湿その他いろいろに使えます。

 このような事例は長い間に培われた生活の知恵のひとつですが、最近は現代的生活の名のもとに単機能の商品があふれ、かえって不便なこともままあります。冬に活躍する一般的な暖房器具などは、我が家の場合、石油が燃料なのに電気につながないと働かない温風ヒーターで、それではお湯も沸かないので別に湯沸かし器を使い、湯気が出ないので加湿器を使うということになります。昔のストーブではこんなことはありませんでしたから、本当に便利になったのかどうか疑わしい状況です。ここには、暖房器具なのだから暖房さえできれば良いという単純な思想しかありません。ちなみに、東日本大震災のときは、雪が舞う状況なのに停電で暖房器具としてさえ使い物になりませんでした。

 合気道でもそれと似た状況が生まれたかもしれない事態があったことは本欄〔⑦ 名前〕で触れました。とにかく、実体としての事物が主で名前はその付属物でしかないのに、逆に名前がものごとのありようを限定してしまうという本末転倒が世間にはあふれています。

 話が横道にそれました。本来のテーマに戻れば、棒切れ術は、身近にある棒状のものを使って護身の役にたてようという技法ですから、あえて短棒とかステッキとか特定の品物の名前を付けなかったわけで、そのことは前述〔⑦ 名前〕でおわかりの通り黒岩合気道の思想に直結する作法だったのです。ここであえて思想などと大仰に言うのは、昨今、技法であれ理念であれ、それを貫く術者の考えが伝わってこないことが多いからです。上手とか下手とかではなく、これはこうであらねばならないという理屈が大切だとわたしは考えています。その一貫した理屈を思想と表現しました。

 ある技において、なぜ右足が前なのか、なぜ手のひらが上向きなのか、その隠された理由を知らないまま数を重ねるだけの稽古はいかにももったいないと思うのです。結局それでは技名に誘導された動きをするだけの単機能技法でしかありません。本当はいろいろな変化が可能なのに。

 ある有名な古流武術の流派は、剣術の型の一本々々の手数が多く長いことで知られていますが、それはあくまで体と動きの鍛錬用で、実際は、一瞬で勝負が決まる『崩し』という変化型があります。これは免許者にだけ伝えられる実戦技で、あえて外部には真実を見せないように工夫されたものです。長い伝統を持つ武技には多かれ少なかれそのように複数の働きを持たせたものがいくらでもあります。合気道もその技法の淵源は古の武術である以上、表の顔と裏の顔があるくらいのことはわからなければいけません。黒岩先生言うところの『合気道はウソを教えている』という直感はこのあたりの消息を踏まえてのことでしょう。

 四方投げはこう、一教はこうなどと名前にとらわれなければ、違うように見える合気道技法の多くがほぼ共通の体遣いによって成り立っていることもわかるでしょう。それを解き明かしていくことが技の核心に迫る秘訣です。