合気道ひとりごと

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244≫ 補助理論という名の屁理屈 

2014-08-10 16:21:07 | インポート

 皆様ご存知の通り、このブログではその論点の基盤となるものの多くを永年ご指導いただいた黒岩洋志雄先生の合気道理論に置いています。ですから、なにかというと黒岩先生のお名前を出していますが、わたしもこう見えて(どう見えて?)歳だけは馬に喰わせるほど重ねていますから、いつまでも師匠頼りでもあるまいと思わないこともないのですが、まだまだ黒岩理論を超えるものは提起できていないというのが実情です。

 その黒岩理論を一言で表すと《科学合理性》ということに尽きるのではないかと思います。ここで言う科学合理性とは、ある一定の方法をたどれば誰がやっても何度やっても同じ結果を得られるという意味です。そこには恣意的解釈や曖昧さの余地はありません。さらに言えば、複数の方法で同じ結果を得られるなら、より単純な方法が真理に近いということも含みます。

 言い換えれば、研鑽すればするほど技法はより単純化する方向に進むのが道理だということです(これはわたしが常に言っている精度を高めることと矛盾しません)。そのような単純化のことを前提に、先生は、ああしたらこうして、そうきたらこう返して、こうなったらそうする、のように段取りが3手以上つづくようなものはファンタジーだとおっしゃったそうです(このことはわたしが直接伺ったことではなく、優秀な同門からの伝聞です)。

 とにかく、そういう越えがたい壁としての黒岩理論がある中で、それでも技法に自分なりの理論(わたし流の屁理屈のことです)を織り込むことが部分的には出来つつあります。もちろん、新理論を織り込んだからといって技法が劇的に変わるわけではありません。実際、見た目はほとんど変わりません。むしろ技法(体遣い)を解釈する上での補助理論としての意味あいが大きいと思います。

 そんな中の屁理屈のひとつを今回はご紹介します。どうでもいいことだから屁理屈なのですが、単純化というものの見方、考え方を説明するのにちょうどいかもしれません。

 それは座り技呼吸法です。これは合気道においては文字通りあくまでも呼吸法として扱われるべきものですが、似た技法が他流派では合気上げなどといわれるように、《合気》というものを鍛錬する方法として説明されることがあります。

 これの源流がどこにあるのかは知りませんが、現在のように流布されたのは大東流からでしょう。ほかの柔術系流派やそれ以外の武道でも類似のものがあったり興味を示す人がいますが、その解釈はいろいろで、中には武道の埒(らち)を超えたものもあるようです。

 わたし自身は大東流の教えを受けたことはありませんので推測の域を出ないことと同流への批評、批判ではないことをまずはお断りしておきます(真摯に武の道を歩む人には敬意を捧げております)。

 さて、合気上げの特徴として書籍や映像でよく見られるのは、向かい合って座り、相手の手首をつかんだ人が、合気をかけられるとそのまま背すじを反らすようにして立ち上がってしまうという風景です。

 わたしが問題としたいのは、この現象を気の力だとか意識の操作だとか、中には微電流の働きとかを援用して説明していることです。あえてそれに反論はしませんが(だからといって同意はしませんが)、もっと単純な理論で説明できればそのほうが真理に近いとは思いませんか。

 わたしの論は次の通りです(いつもそうしているという意味ではありません)。まず向かい合って座り、取りは両手を腿の上にきちんと置きます。受けは取りの両手首をつかんで押さえつけようとします。このとき(受けが手首をつかむ瞬間)取りはいつも通りに手をかざすと、それ以外なにもしなくても受けは膝立ちになります。

 そのコツは、受けが手首をつかむその瞬間に取りは始動のタイミングを合わせること、受けは取りの手首を下方に(腿に)押しつけるつもりでつかみにいくこと、そして一番のポイントは、押さえつけようとする意識を受けは動作中継続して保持することです。以上です。そのようにすると受けは自分で立ち上がってしまいます。これは受け取り双方が腕立て伏せができるくらいの力があれば誰でもできます。

 これには難しい理屈はなにもありません。受けは、つかもうとする瞬間に反発された場合、なにも対応しなければ手を持ち上げられ脇が空いてしまいます。これがわたしたちの普通の呼吸法です。受けがそれを避け、継続して上から押さえつけようとすると腕や上半身の形を保つため自分から腰を浮かすしかないのです。

 それは気といえば気かも知れないし意識の操作といえばそうかもしれませんが、しかしそんなものは言葉の遊びでどうでも良いのです。普通の呼吸法ではそこまでしないで適当なところで横に転がるから、操り人形みたいに立ち上がることをしないだけです。

 いずれにしろ、こんな単純なことを人によってはさも秘技のように喧伝するのはいかがなものかと思うわけです。さらには、非科学的で非合理的なもの(つまり特定の人が特定の条件下でしかできないこと)を有難がる傾向が合気系武道の一部にあることは健全な状況とは思えないということです。

 黒岩理論の検証をするなかで、やはり《ものの役に立つ》ということをあらためて感じさせられています。次回はその観点から論を展開したいと思います。


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2 コメント

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管理人様   座り技呼吸法  いつも疑問に思っ... (yasuhiro)
2014-09-04 21:01:57
管理人様   座り技呼吸法  いつも疑問に思っていました。  先週末に訪問した道場では、受けは座り技呼吸法で左右に崩されて上向きに転がっていても、掴んだ取りの手首を離してはいけないと言われます。
そして、そのまま起き上がりなさいと言われます。しかし、両手を突き出したままではとても起き上がれません。
そこで、手を離すと取りとの呼吸の流れが途切れてしまいますよとの指摘がありました。
その道場にはバスケットボールが置いてあり、座り技呼吸法の時にはこのボールを使って渡したり受け取ったりを繰り返します。
ん~ 私にはわかりません。

同じく立ち技片手取り転換法の稽古の時は受けは取りが側面に転換した時には取りの手首を持ったまま一緒に回転方向にくっついていかないといけないそうです。
そして取りが3分の2回転したところで、また、元の位置に体軸を巻き戻します。
受けはそのまま、逆回転して勢いあまって倒れます。

何か不可思議な合気道でした。









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yasuhiro 様、こんにちは。 (agasan(管理人))
2014-09-05 10:28:53
yasuhiro 様、こんにちは。

いただいたご文章は合気道指導法への厳しいご指摘と受け止めました。
お取り上げになった道場ではいろいろ工夫しておられるようですが、《なぜそうするのか》という疑問に的確に答えてはいないようで、それではやはり指導法としては吟味不足でしょう。
どのような稽古法であれ、その意味を知っているか知らないで惰性でやっているかでは後々上達に大きな差が出てきます。指導者は、その責任が自分にあるということを認識すべきです(自省も含め)。

お話のむきから出稽古に行かれたということのようですが、そのこと自体はとても良いことだと思います。
わたくしも初、二段の頃は、一番多い頃で週に4箇所くらい出稽古に廻ったことがあります(そのようなことが可能な時代でした)。稽古仲間の勧めや情報をもとに行くので、あまり変なところには行きませんでしたが、自分に合う合わないというのはありました。
私事、そうする中で生涯の先生に出会えたことは幸せでした。
yasuhiro様もどうぞ貴重な経験をお積みくださいますよう。
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