風に吹かれてぶらり旅

まっすぐに生きる人が好き

行幸通り地下通路

2009-03-31 22:38:03 | 徒然
ここ二、三日、会社近くの地下鉄の駅から
都営三田線に乗り、大手町で降りて
JR東京駅までの連絡通路を歩くコースで帰っている。
人もまばらな、だだっ広い行幸通りは歩いていると
建物内とはいえ、広い空間に気分が清々する。
帰りの電車に乗る前の、つかの間の休息だ。

地下通路はまるで病院の廊下のようだ。
蛍光灯とコンクリートの灰色の壁、いかにも「通路」を歩いていると、
余計なもののない、この無機質な景色になんとなく癒される。
(行幸通りは照明も通路もきれいだけどね)
疲れてヘトヘトになって
ただ帰ることに集中してて、何にも考えたくなくて、
誰にも声をかけられたくない
そんな気持ちが解放される。

ただただ歩きながら、
オンからオフへ、東京から埼玉へ
家に帰る心のシフトチェンジができる、時間と空間の隙間、つなぎめを歩いている
そんな感覚になる。
地上に出れば両サイドに丸ビル、正面にはレンガ造りの東京駅、だけど
今日は地上には出ずに電車に乗り継ぐ。

明日から新年度、
今日は帰りがけに机の周りを片付けながら、
もーそろそろ私も気持ちを切替えて
外を向いてもいいでしょ、と自分に対して思った。

今、私は目の前のことでいっぱいいっぱいだから。
社員として、部署として、私という個人として
自覚と責任もって仕事しないと。
異動して新しい仕事について、三ヶ月目に入るから慣れていい頃

って自分に対して大義名分つくって
気持ちを切替えたい、変わりたいんだ。

沢山のこと

2009-03-30 01:07:18 | 徒然
頭の中には沢山のことがあって、重たい。
そんなにいっぺんに片付けようとしないで、一つひとつ外に出していけばいいのに
ちょっと詰まると
雪だるま式に色んなことが頭の中で一緒になって絡み合い、できるのかなと不安が膨らんでしまう。
そうやって立ち止まる。

そんな時は気分転換するのが一番よくて
外を歩いたり好きな音楽を聴いたり、
自分の気持ちを文章にしたりする。

今気分転換が必要だ。
前に進むために。

考えろ

2009-03-25 08:10:05 | 徒然
考えること、なぜ?と問い続けること
これはとても大切なことだ。
そして、自分はどうするかを決めて行動に移すことが一番大事だ。
この選択の積み重ねが私の一日、一年、一生をつくる。

たとえ何かを「人に任せる」のだとしても
「人に任せる」という選択肢を選んだ自分の判断がそこに必要だ。
そうしないと他人の意識や意見の濁流にただ流され自分を見失う。
自分がやったことに対しても責任がもてない。
人のせいにする
無気力になる
生きたいと望む気持ちがなくなる

それは心の停止を意味するんじゃないか。

私はもっともっと感動を味わいたい。
自分の人生を投げたくない。
誰にも渡したくない。
たとえ何かを選んで失敗しても、自分が選んだことだからとちゃんと受け止めたい。
人のせいにはしたくない。
たとえ傷ついても、苦しくても
それは全て私の選んだ選択肢である限り、私が今ここに生きているから生じる感情で
私が命を燃やして生きている証なんだ。

無駄なものなどない。必要だからここにある。
なら私が今選んだ環境、仕事は必要だからある。
違うと思うなら別の選択をすればいい。

人のせいにするな
それが自分のためになる

今よりよくなりたいなら
よく考えろ

人が考えることなんて
そう違わない。
なら今いる環境での最も適した答えがみえるはずだ。

できるできる
だって今までそうしてきたもの。
自分の直感を信じて生きてこれたんだから。

なんとなく、これを書いているうちに
目の前の世界がはっきりみえるように感じている。
そうだ私は自ら生きているんだ。

命について

2009-03-24 20:30:55 | 徒然
私は何の為に働いてるんだろう。
何の為に生きてるんだろう。
何故生まれてきたんだろう。

私は「生かされている」

そんなのわかってる。
今まで何度もその答えに導かれた。
私の命は宇宙のチリ、
私一人いなくなっても
地球や宇宙の視点からみたら
何事もなかったように命の営みは続く。

なのになぜ私はここにいるんだろう。

(もし、今これを読む人のなかで身近で大切な人を失ったり、病気と戦っていて、命について書くことで気持ちを傷けてしまったら、ごめんなさい)

存在するということはいる必要があるからいる。
生きている役目を終えたなら死ぬ。

でも死とは一体何なのか。
肉体が機能を停止することなのか。


…だとしたら今ここに生きていることはものすごい奇跡なんじゃないのか。

食べなければ
排泄しなければ
呼吸しなければ
体温を維持できなければ
眠らなければ
服を着て体を守らなければ

簡単に死んでしまう。

鳥のように空を飛べるわけでもなく
馬のように速く走ることもできず
光合成をして酸素を作ることもできず

植物や動物を捕って食べ
泣き 笑い わがままをいい 文句をいい
自分がどうしたら幸せになれるか
を考える私。

そんな弱い私はなぜ生きているのか。


…なんでこんなことを考えたかというと
私は今ここにある当たり前の毎日に感謝をしたいから。
本当の自由を手にしたいから。

心にあるもやっとした気持ちを
ブログにスケッチして客観視しようとしてる。
自分を理解しようとしてる。

…そうか、私は自分のことをわかっていないんだ。
私のなかに、まだ知らない私がいるんだ。

沢山の私の余計な心配や思いをかきわけて、本心や本当の言葉に出会うこと
新しい自分に出会い続けること
それが成長するってことなんだ…きっと。

だから歩みをとめたら成長がとまる。
現状で満足したらそこがゴール
そこで終わり。
つまり、それは死を意味するのだろうか。

肉体は機能しても、新しい自分に出会うことをやめてしまったら
死んでいるということなのだろうか。

もしそうだとしたら
肉体が滅びること=死
じゃないんだ!

今私が、この体を使って生きている私が
自ら新しい自分に出会うことを諦めてしまったら
そこで私は死ぬんだ。

死ぬというより、止まるという方が正しいのかもしれない。

なら、この体を使って新しい自分に出会う旅を続けることが
生きるということなんじゃないか。

そして私が私である理由は
この肉体を持って生まれことだ。
それは間違いない。
私であることはこの体であること
私の両親から生まれたこの体であることが
私が私である根拠だ。

私という意識だけでは今の私はありえない。
私の体だけでは「私」の心がない。

私の体は
両親や祖父母やずーっと昔の先祖、
私が食べてる動物や植物、水
自然環境、育ててくれた人
がいて、維持されている。
私は心と体の二つ
実際には沢山の命に守られて支えられている。

支えられてばかりではいけない。
私も何か、他の命を支えなきゃバランスが悪い。
いる意味がない。

かと言って宇宙のチリである私に他の命を支えることなんて
あるのだろうか。
無理して苦しいことはしたくないしなあ。

私ができること=私(心+身)ができること
心=新しい私に出会うこと
体=生まれもった体、生まれ育った(現在も含めた)環境

そう考えると、「体」には制約があるから割と楽に「今自分が何をすべきか」を特定できそうだ。

ほらまた私は新しい自分の文章に出会うことができた。
このブログ、携帯、読んでくれたあなたに感謝。

もしも明日がなかったら

2009-03-09 22:39:55 | 徒然
もし、私が明日目覚めることがなかったら
きっと後悔するだろう。

もし、私の命の時間の連続が突然断たれてしまったら
きっと未練が残るだろう。

だけど、もし好きなことをやってる時に死んだなら
自分の心に嘘をつかず選んだ道で果てたなら
後悔しない。

だってその道は私が選んだ最善の道で
その道でなければ心は死んだも同じ。
…って極端かな
でもそう思う。

与えられた短い人生の貴重な時間を
自分の心に嘘ついてなんとなく過ごすなんて
もったいない。

どうせ死ぬなら…

やっぱ、できたー!
って感動を味わって死にたい。
何度みてもきれいな景色だー!って
みんな笑ってる、
感動してる、泣いてる

自分がしたことで、人々が幸せになるなら

もー死んでもいいやって思うな。


どうせ生きるなら
好きなことに向かう果てしない道を歩き、命の最後まで一生懸命生きて死にたい。

今、改めてそう思えることに感謝です。
悟りの窓の光明に吸い込まれるように
少しずつ迷いが消えていく。
今そんな感じ。

同じ時代に生きてる人々

2009-03-08 16:16:38 | 徒然
このブログで何度か書いているけど、私はマイケル・ジャクソンが好きです。
色々あっても、彼は天才だと思います。
夢はMichael Jacksonに会うこと!!
生きてるうちに叶うかなあ~~~!?
ガネーシャ様!プリーズ!
なんでもしますから。

…今年の7月にロンドンでライブをやるというニュースを昨日テレビでみて、久しぶりにマイケルの今の映像をみた。
もう50歳か…、
でもテレビに映るマイケルのファンは熱狂的で
マイケルを目の前にして瞳がキラキラしていた。
あのエネルギーはすごい。
私が中学の頃マイケルに一目惚れしてからもう16・7年、
そりゃあ歳をとるよね。
今もう一度マイケルの歌が聴きたい。
ジェームスブラウンやフランクシナトラの舞台を袖でみながら
大人顔負けのソウルを歌って踊った子供の頃のように
ただ純粋に音楽とステージを楽しみ、歌い踊り狂うマイケルをみてみたい。

マイケルに会いにイギリスに行くのは難しいけど

今年は前からいいなと思っていたアーティストのステージをみに行きたい。
人々に感動を与える作品を生み出す人と
せっかく同じ時代を生きているんだから。

春に槇原敬之のツアーがある。
発売日にチケット予約の電話をしたけど関東の会場分は完売していた…
しかし!なんと東京での追加公演が決まった!

ウルフルズももしライブがあるなら行きたい。

自分の感性が反応すること、好きなことをもっと感じる体験をしたい。

KNOCK

2009-03-06 08:26:53 | 徒然
心の扉をもうひとりの私がノックしている。
日に日にそれが強くなる。

特に、自分のやりたいこと好きなことを頑張って努力して
悩みながらもいきいきとしている
そんな人をみたり、話を聞いたりすると

いてもたってもいられなくなる。


経理に移って一ヶ月半、仕事量は多いけど、やるべきことははっきりしているのと
前任者が目の前に座っているので前よりは安心して仕事に取り組める。
わからないことは教えてくれる。
…けど、

あと数ヶ月して慣れてきて
果たしてモチベーションを維持できるかというと
今のままでは自信がない。

私は出納係になりたかったわけじゃない。

人事の役員にも
「ほんださんは今模索中だからね
とりあえず一年、やってみて資格もとって
社会人としてしっかりした考えを持ってるという
経験を残して

そしたら現場でもどこでも好きなとこにいけばいいよ」

お酒の入った席でだけど
そう言われた。


ありがたいことだ。
専門職に就くための知識や経験を持っているわけでもなく
事務職の経験が豊富なわけでもない。
頭がいいわけでもなく
新卒でもない。

ただ、頑固で
言いたいことばっかり言い
始業5分前に出勤して
長年勤める先輩と良好な関係を築けない

最近は早く帰ることばかり考えてる



なのにここにしがみついてる。

私って一体何なんだ?

そして会社が私を雇っているメリットはなんだ?

私は仕事に対して誠実でいたい。
それが自分が自分であることのプライドだから。

だから不誠実な気持ちしかなくなったら
仕事してて自分が苦しくなる。

そうならないように
少しでも好きな世界に近い仕事を選んだ。
そこでの作業は自分にとって興味がある、プラスになることがあるから
より精力的に仕事ができる。

けど、建設会社でも、ものづくりの現場から離れた部署についただけで

仕事への意欲や興味が薄れてしまう。

いや、今自分がどこへ行きたいのか分からなかったから空しいんだ。

いや、好きなことから離れたからこそ
気付いたのかもしれない。
心の扉をドンドンと
ノックする音がなりやまないから。

表現したい

2009-03-05 12:45:32 | 徒然
沸き上がる苛立ち
思いどおりにならない自分への怒り

抑えようとしても、抑えきれない。

そしてそんなことを考えてる胸の奥にはあたたかさ、心地よさを感じる。

めんどくさっ!

て思う自分

いい人を演じる自分を捨てきれない自分

もっと世界を知りたい。
もっと自分の言葉で語りたい。

独立心こそ私を向上させてくれる源だ。

ああ、もどかしい。
表現したい表現したい表現したい

ケータイカメラの写真

2009-03-03 08:11:06 | 徒然
先月のことになりますが
2/22の日曜の朝、散歩がてら氏神様へお参りに行きました。
参道から脇道を入ると梅林があるのでそこで満開の梅をケータイカメラで撮りました。

2/15に家族でお参りしたときに母が見つけた梅林。
今まで何回も神社に来ていたのに、気がつかなかった。
ひっそりと、ささやくように春の季節の訪れを教えてくれる梅は
寒さに耐えようと頑なに閉ざした心に
そっとほほ笑んでくれているようで
自分の魅力を押し付けない優しさがあって
けなげで美しい。

朝は空が青いから、
梅の白とピンクが映えてきれいだった。
ふくらんだ梅のつぼみが目の前で今にも開きそうなくらい生き生きとしていて、
太陽を浴びた梅の花たちは鮮やかに輝いていた。

自分の身近にあってよく知っているつもりでも、
近いからこそ見落としている魅力というのもあるのだと思った。

昨日の帰りの電車では
ケータイで写真のデータを見返した。
携帯のメモリーカードには機種変する前からの写真が入っていて、
一昨年に日常の風景を何気なくとっていたから、撮ったことを忘れていた写真もあった。
時が経って改めてデータフォルダ内の一連の写真をみるとなかなか新鮮だった。

この時はかなり落ち込んでたなーとか
逃げ腰だなーとか
でも必死だったなーとか
カメラを通して当時の自分がみた風景が、
写真を通して再び今の私の心にうかぶ。

去年一年のこと自分にとっては色々な出来事がありすぎて、あんまりよく覚えてない。
思い出迷子です。

だからなんか楽しみだ。
ちゃんとあちこち行って自分なりに生きてたんだなって
確認したい。

メスの孔雀のご挨拶

2009-03-01 19:11:14 | 徒然
 今日は家族で氏神様へお参りに行き、帰りにスーパーで買い物をして
久しぶりに家族で外食した。

外食といっても、ファミレスですが…。

こーいう何気ない日常が本当はとても幸せな風景だったりするのに、
なんでこう、外に求めてしまうんだろうな。


 …1日、15日に氏神様へ行くことは家族の間ですっかり定着した。
実際、今日は日曜日で徐々に暖かくなってきたのもあってか、
お参りしている人が結構いた。

 うちの地元の神社は「久伊豆神社」といって、
歴史は1300年前、欽明天皇の時代に遡るらしい。(って案内板に書いてあった)
大宮の氷川神社などと比べると小さな神社だけど、私は雰囲気が好きだ。

古くからある木々がそのちょっと別世界の雰囲気を醸しているのかもしれないな。
昔はお城の一部だったこの神社で、今日から15日間宜しくおねがいしますと
家族で拍手を打って神様を呼び出し、お願いしてきた。
その光景がなんだか日本映画のワンシーンみたいでいいなと思ってしまった。

ご利益のおかげか、弟の調子もよい。

 
 そして、昨日今日とまた掃除。
去年から土日はいつも掃除ばっかりしてる気がする。
不用品を処分場に持ち込むのも毎週のことだ。

私の部屋のクローゼットの中も物や本を売ったり、捨てたりして
だいぶスッキリしたけど、
まだ整理余地があるなと思う。

自分の部屋にはベッドと机とコンポだけの状態にしたい。
きっと生きていくうえで必ず持ってなきゃいけないものなんてそんなにない。

 あと、これは最近またよく感じることなのだけど
昨日の自分が古いものに感じる。
今日の自分が新しくなってるってことなんだろうけど、

つい最近買った洋服でも「なんでこんなの買っちゃったんだろ?いらない」
と思ったり、
この間みたいに、「もう何もかもがいやだ」と思っていたと思えば
人に話して一晩寝ると「なんであんなに悩んでたんだろ」と思う。
掃除してて、「これ捨てようかな、でももったいないな…」と思っていた翌週
「いらない、もう使わないから捨てちゃお」とあっさり手放そうと思う。

 もっともっと、要らないモノを捨てて
余計なこだわりを捨てて、飾りを一度全部捨てて
小さい種みたいな、「ありのままの自分」と「人と接するときの自分」が
同じになるようになりたい。

そしたらすごーく楽なんだろうなぁ。

 
 今日は、神社で飼ってる孔雀のメスが羽を広げて求愛行動をしていた。
メスは羽が短くて羽の色も茶色で地味なのに、
それでもめいっぱい広げてて、その一生懸命さがとても愛らしかった。
カメラを向けているうちに、羽をおろしてしまった!
シャッターチャンスは「今だ!」と思ったら迷っちゃいけないなぁ。


道端には菜の花が咲いていた。
春がやってきたのだ。