風に吹かれてぶらり旅

まっすぐに生きる人が好き

風に吹かれて二人旅

2007-04-22 01:14:10 | 京都
 この一週間、怒涛のように過ぎた。
15日に祖父がこの世を去り、17日に通夜、18日に告別式があり、
それに17日には弟の入院もあった(ちょっとした手術で)。
その間、病院に交代で泊まったり葬式に出たりと両親があわただしく動いていて、
私は家事などをする役に回っていた。

 週の前半は天気が悪く、また家族みんな疲れていて
洗濯物がたまりにたまり、それをとりあえず部屋中に干したり、
病院に泊まる母の代わりに父に夕食を作ったり、洗い物や風呂を掃除したり、
仕事帰りに買い物をして帰ったりと…

正直言って、慣れない事態に余裕もなくちょっと疲れ気味だった。
心を潤す時間があまり持てなかった。

気が付けば7日経っていたという感じだ。


 一週間前、私は京都にいた。
本当はこの日先約があったのだけど…それをまたの機会にしてもらい、
仁和寺の御室桜を見に行った。ドタキャンしてごめんなさい

京都好きの友達からのふいの誘いがなかったら多分行かなかったと思う。
今年は独りで桜を見にいく勢いが去年ほどなかったので、「行けたら遅咲きの桜を見にいこうかなぁ」くらいに思っていた。

 今まで京都には7回訪れているけれど、仁和寺は行ったことがなかった。
でも中学の修学旅行の時に「仁和寺の御室桜はちょうどキレイだから見に行くといい」と先生に言われたのを覚えていて、いつか見てみたいなと思っていた。


 そして御室桜はタイミングのいいことに満開だった。
円山公園の枝垂れ桜やソメイヨシノはもう一週間前が見ごろだったようで、
殆ど散ってしまっていたけど、たわわに実る果実のような御室桜とピンクの小花の紅しだれ桜はちょうど見ごろだった。



いい旅だったなぁ…

一人旅もいいけど、女二人旅もいいものだ

今回は土日だったのに新幹線や宿などはすんなり取ることができた。

とりあえず忘れないうちに足取りだけ書いておこうと思う。

14日(土)
7:16東京発 新幹線のぞみ→9:50京都着
地下鉄→五条駅→「十四春旅館」
市バス「烏丸五条」→仁和寺御室桜・昼食・軽食→(徒歩)
→妙心寺・雲龍図・退蔵院→市バス「妙心寺前」→「四条烏丸」→(徒歩)
→四条大橋→先斗町(せんぽうちょう)「ふじ田」にて夕食→祇園白川の夜桜
→市バス「祇園」→「四条烏丸」→地下鉄四条駅→五条駅
→22時すぎ「十四春旅館」着

15日(日)
8:00朝食→10時頃チェックアウト→地下鉄五条駅→京都駅
JR京都線 向日町駅→11時すぎ 阪急バス「善峰寺ゆき」→11:40頃善峰寺
(この間、三重で震度5強地震発生)
→13:36阪急バス→JR向日町駅→京都駅→地下鉄→四条駅→(徒歩)昼食(おそば)→四条大橋→祇園→円山公園枝垂れ桜→市バス「祇園」→18:00「京都駅前」
エキナカで買い物→19:15京都発 新幹線のぞみ→21:46東京着

一緒に行った友達が連れていってくれた善峰寺はよかった!
こうして書いてると思い出と情景が甦るなぁ。


 今年は桜を満喫できないと思っていたので、ドタキャンしちゃった友達にも、京都に誘ってくれた友達にも、このタイミングとチャンスにも、本当に感謝です。

 今日は朝から家事と猫の通院と家事と昼寝と家事と…だいたい家のことをやっていました。こうして自分の時間を持てることに感謝です。
そして明日は自分の為に時間を使うのだ。
多分ゴールデンウィークの計画と月曜の準備と、またこれから先の計画を立てて終わっちゃうんだろうな。
でも、振り返る暇もない本当に忙しい一週間だったけど、
そんな中で友達との電話やメール、好きな音楽やテレビ、家族の時間の大切さを身にしみて感じたのでした。

ほんとに、家族も友達もみんな元気で居てくれるだけでいいんだなって思った。
それがどれだけ私に自由をくれているかが分かった。
まだまだみんなにお返ししきれないけれど、少しずつ気持ちを整理して感謝の気持ちを伝えたい。その為の、お休みなのだ。

季節は巡る

2006-08-06 09:46:28 | 京都
 7月31日(月)18:57京都駅発 新幹線のぞみで京都を後にした。

 今日は8月6日、もうすぐ一週間が経とうとしている。

 なんだかあの3日間に比べて、帰ってきてからの時間はなんて密度が薄くてなんてあっという間なんだろう。人生ってこんなにあっという間に過ぎてしまうものなのかな。

 近頃全く自堕落な生活をして、やる気というものが全身からごそっとそがれてしまったような状態だった。けれど、それも仕方ないと思うしかない自分もいた。とにかくやる気がでないのは苦痛だった。でもどうすることもできなかった。

だから、少しでも気が滅入らないように、友達や家族と過ごしたり、楽しいことをして遊ぼうと思った。そして実際に、その瞬間はとても楽しく充実したものになる。でも、一人になると不安になり、自分は逃げているんじゃないかと思って焦ったりする。夏を感じれば感じるほど、その感じたことをどうにも消化できない自分に苛立ったりする。今の自分の生を無駄遣いしているという感にかられる。
そんな状態でいると大変疲れるので妙に眠くなる。
昨日は朝起きて、午前中少し活動して、午後は13時~17時くらいまで寝ていた。

「なにやってんだろうな…」と空しくなる反面、色々もがいていればいつかどうにか道は開けるだろうと楽観的な自分もいる。今はこの楽観的な自分がなんとか私を支えている。

 さて、さかのぼって京都旅行最終日、私はその前夜、中学からの付き合いの友達に電話をした。京都に行こうと思った訳や旅に出て感じたことなど…色々聞いてもらった。改めて、私は今までずっと一人じゃなかったからこそ、自由に自分の好きなようにできたんだなぁと思う。自由っていうのは、心の拠り所があるからこそなんだと思った。そうでなければ怖くて寂しくて自由に動き回ることなんてできない。
 友達と電話で思い切り話した翌日、かなり良く眠れた。
そして、この日は妙心寺の雲龍図を見に行くことにした。

私は天竜寺にあるのが龍が動くという有名な雲竜図かと思っていたのだけれど、妙心寺にある狩野探幽の『雲竜図』こそテレビなどで見て、見たいと思っていた絵だったのだ。

妙心寺、ここは去年も訪れた場所だった。
でもその時はお寺の敷地内を通過するだけで、まさかここに龍の絵があるとは思っていなかった。

京都市役所、ホテルオークラ(設計は丹下健三)の近くのビジネスホテルをチェックアウトし、京都駅のロッカーに荷物を預けてからバスで妙心寺方面へと向かった。

私が泊まったホテルはロケーションと交通の便がよく、シングル一泊5000円以下とリーズナブルでしかも隣にコンビニがあるという、とても気に入っているところなのだ。ただ、今回私が泊まった部屋は窓を開けたら、目の前は墓地だった。
一人旅なだけに、なんかいや~~な気持ちになって夜寝る時に早く眠れ!と思いながら寝た。
しかも水のジャーと流れる音や、ポタポタとしたたり落ちる音がずーーーっとしていた。単にトイレのタンクの水がせき止らずに流れっぱなしになっていただけなのだが、それすらも何か得体の知れない物の怪の仕業ではないかと思ってしまったりして一人で怖がっていた。お陰でトイレのタンクの中を開け、ちょこっと調整するはめになった。夜中にホテルの人を呼んで多分私が直したのとおんなじ作業をするなら、めんどくさいからまぁいいやと思い、深夜にトイレのタンクと格闘していた。
こういう時に洗面所の鏡を見たりするのが怖くって仕方なかった。
なんかよからぬものが映っていたらどうしよーーー!なんて思ってしまうんですよ・・・ましてや一人だし、出てこられてももうどうすることもできない。

 さて、話を戻して、
妙心寺の龍の絵は明智風呂という蒸し風呂とセットで解説付き500円で見学することができる。
これは一見の価値ありだ。
なにせ、狩野探幽は構想3年、筆をとってから5年、計8年かけて絵を完成させたというんだから…気が遠くなる。
これは天井に掲げられた絵なのだが、見る位地によって龍の表情や動きが変わるのだ。
特に、龍がググっと動く瞬間のポイントがあって、そこが面白くてなんども行き来してみた。なんというか、龍の気配や周りの空気や風まで感じられる絵なのだ。天井に更に奥行きのある空間があるかのような、龍がそこに住んでいるかのような…

 それを見たらもう満足してしまった。
あとはぶらぶら京都の街を散歩することにした。

四条河原町行きのバスに乗り、四条通りの鴨川の手前のバス停で降りた。
この日も天気がよく、暑かった。
祇園の方へ行ってみようと思い、四条大橋を歩いてみると…
いた!4月に京都に来た時にメッセージを描いてくれた太郎さんがいたのだ。

まさかこんなに暑いのに路上で描いているとは思わなかったので嬉しかった。そしてまた描いてもらうことにした。
「かっこいいのとかわいいの、どっちがいいですか?」
「かわいいのがいいなぁ…」
といって描いてくれたのが…

 「なおこが辛いときは
  気にしないこと。
  ただ ただ
  辛いことの次に
  幸せが順番待ちしてるだけ。」

太郎さんの前では笑顔でいたつもりなのに、
「はい、じゃいきます」と目をみつめられて、見透かされるという…
これは、彼の才能だと思う。
才能を自分で磨いてきたんだと思う。
じゃなきゃこんなに人の心を揺さぶるような言葉を一瞬にして直感的に描くことはできない。これはあくまでも私をみてインスピレーションで描いたものであって、私にしか分からない気持ちだけれど、たとえたった一人に対してでも感動を与えられるなら、それは立派な名作なのだと思う。

予想外の言葉にまたぐっときてしまい、涙目になってしまった。
太郎さんから癒しと元気をもらい、祇園へと歩いていった。
そこでぶらぶら買い物でもしようと思ったのだけれど、少し歩き疲れて、
丁度清水坂へと続く道沿いにこじんまりとした雰囲気のいいカフェを見つけたのでそこで一休みすることにした。
このカフェはとっても落ち着くところだった。
そしてお店の扉を開けたらまず犬と目があった。
なんていう種類の犬なんだろう?顔がブルドックに少し似ていて、毛足が短く、柄は白黒のブチで、耳がぴんと立っている…
とても人懐こい犬でスムージーを飲んでいる時に足元に擦り寄ってきた。

お店は洋裁教室をかねているらしく、ちょっとした雑貨等が並んでいた。
オーダーしたのは豆乳とバナナのスムージー、玄米クレープだったかな?
特にスムージーはとっても美味しかった。
そして通りに面したカウンター席に座って夕暮れの街を眺めながら一息つけるこの雰囲気がとても気に入った。BGMはウクレレかギターで奏でられた名曲が流れていた。草薙剛主演の『ホテル・ビーナス』で流れていた曲が流れて、大好きな曲だっただけに、気持ちよく聴いていた。
好きだなぁ、と思うカフェやお店を見つけて、そこで自分が好きな曲や絵やアーティストの作品と出会うと、心がシンクロするというか…体から余計な考えが流れだす感覚になる。マッサージを受けて気持ちいいとか、そいういう物理的な刺激ではなく、心が気持ちいいといっている感覚…そういう空間はとっても貴重だ。

 その店を出て、4月に見た円山公園の桜の木を見に行こうと歩きながら、
さっきのカフェなど、個人でやっている小さなお店がいいなぁと思うのは、そいういうお店は本当にそのカフェならカフェをやりたくて、そのお店で扱ってる何かが好きで初めているからなのかなぁ…なんて思った。動機がピュアというか…。当然自己満足の趣味ではなくて商売なんだけど、そこで商いとしてもうまくやっているところっていうのは、最初に期待していた以上にお客さんを満足させているっていうことなんじゃないかなぁと。
そいういうお店と出会えるのは、人との出会いと同じなんだと思う。

 清水道から二年坂、産寧坂を抜け、八坂神社の方へ向かって歩いていた時に、私は京都に来て始めて舞妓さんを見掛けた。本物か偽者か分からないけれど、高級そうな料亭へと消えていったので、おそらく本物だと思われる。その辺りでまた2人舞妓さんを見掛けた。やっぱり華やかだなぁと…京風情を感じずにはいられなかった。

 最後に、円山公園の桜に再会した。
4月に会った時の面影はあったものの、緑の葉っぱが繁々としていて、
なんだか暑そうだった。やっぱり桜が咲く時っていうのは、誰が見てもこの桜が最も美しい時なんだなぁと思った。でも、花が散っても周囲の景色に溶け込まずこうしてくっきりとした輪郭を持った桜はそうない。
そう考えたら、この桜は幸せなんじゃないかと思った。

いよいよ夏どす

2006-07-31 21:02:58 | 京都
7月30日、夕方5時頃、京都は西陣の大衆浴場にて「今日近畿地方は梅雨あけを迎えました」

脱衣所のテレビからそんなニュースが流れた。
たまたま旅行先で季節の節目を迎える時に居合わせるなんて、気持ちがいいもんです。「くぅ~っ夏かぁ~っ」てしみじみ今を感じられるし。

そんなわけで昨日は、
泉涌寺(せんにゅうじ)→鈴虫寺→大徳寺方面へ歩き、西陣の銭湯→大徳寺近くのカフェ(閉まってた)→HOTEL

というコースを辿った。
予めコースをきっちり決めてアクセス方法や所要時間を調べてからいけば、無駄はないのだろうけど、それを細かく考えるのが面倒で目的地を決めたら見当で行っていた。

そしたら見事に迷って住宅地をうろうろしていた。
ガイドブックの地図を見ていても行き過たりして。
暑くて参ったものの、知らない所に来て町並みを見るのも小さな発見があり、なかなか楽しかった。

さて、私の聞いた記憶では泉涌寺はなんでも700年間、100年に一度しか門が開かなかったということで、まさに「幽玄の気に満ちている」といった表現がぴたりとくる。また、ここは後鳥羽上皇が仏に帰依した後から皇室の信仰が厚く、四条天皇、また後水尾天皇~孝明天皇までの皇族のお墓があるということで仏殿などのには建物には菊の紋が入っている。

歴史に詳しいわけではないので、細かいことは分からないが、なんというか、
地味だけどシンプルで品格を感じる場所だ。
空気が現代ではない感じ…
また、仏殿の天井には八方睨みの龍で有名な
狩野探幽の龍の水墨画が付けられており、神秘的な空間だった。

更にこのお寺には楊貴妃の観音像がある。
これも昔は天皇の命令で100年に1度しか公開されなかったらしく、
このことをお寺の職員さんがしきりに繰り返していた。
また、楊貴妃は中国の玄宗皇帝の妃であり絶世の美女とうたわれたことから
この観音様には美人、良縁のお祈りをするらしい。

さて、炎天下の中、歩きとバスで鈴虫寺へ向かった。

ここは鈴虫と名のつく通り、鈴虫が一年中鳴いているお寺なのだが、
メインはお地蔵様だ。ここのお地蔵様は願い事を一つだけ必ず叶えてくれるのだ。
しかもわらじを履いているので、こちらから何度もお参りしなくてもお地蔵様の方から
願いを叶える為にわざわざ出向いてくれるのだ。
なのでお参りするときにお守りを持って住所と名前をしっかり言わなければならないらしい。

 そしてこのお参りの仕方やお守りの説明をしてくれるお坊さんの話がまた面白い。
2月のブログにも鈴虫寺に行ったと書いてあるかと思うのだが、
前回も話を聞いてお守りを買い、お願い事をした。
その時のお坊さんとは違う人だったので、この人の語りの腕は前のお坊さんを越えるのか?と
少し不安だったがそのお坊さんらしいまた違った味の語りだったのでほっとした。
中でも印象に残ったのは
「最近年配の人で神社仏閣やここのお地蔵様の前でも、
手をあわせてお参りするという人が減ってる少なくなっている。
お寺は本来参拝し、礼拝する場所なのだから、皆さんも黙ってただ眺めて
写真だけ撮ってただの観光客になってしまうのではなく、せっかくいらしたんなら
どうぞ手合わせて拝んでいって下さい」

私はこれを聞いて確かに観光旅行と旅行は違うのだと思った。
お寺などへは、本来は信仰心を持っていく所なのに、
うわさで聞く建物や美術品をみて、
「ふーん、これがあの○○寺、へぇ~、すごい立派」で終わってしまう
人も多いのではないのだろうか。
要するに京都へ行っただけで、そこになぜそのような建物が建っているのか、
深く感じ入る人が少ないんではないかということだ。
もっと言えば、「観光」の字のごとく、光の部分を観る、つまり
きらびやかで美しい「表」だけ、おいしいところだけを観て、その場所を知った、
世界が広がった気になってる人、増えていませんか?ということだ。

そういう私も何となくで行っている独りであった。
でもまるでスタンプラリーのようにとりあえず見た、っていう見方はしない。
そういえば・・・4月に桜を見に行った時にそういう見方をしてすごく疲れた。
だから何か心で感じとりたいと思って行く。
観光バスツアーなどの団体をみかけるとつい、
ツアーで回って面白いのかなぁ…と思ってしまう。
だって、集団で行動して、自分がここいいなぁと思って時間をかけてみたいと
思っても「はい皆さんそろそろバスへ~」って言われちゃんでしょ?
そんなのつまらない。
私だったら周りのことを気にしちゃって見入ることに集中できないなぁ。

大切なことは感じること、それを表現することなのではないかと思う。
何百年も昔にここに権力のある人物が建物を建て、そこで歴史的な出来事が起こった
そういうことに思いを馳せたり、ここで何を思ったのか、
自分が見ている風景は昔はどんな風だったのかとか、そういうことを考えたり、
仏像の顔を見てなんておだやかな顔なんだろうと思ったり、

ここに来て素晴らしい風景に出会えたことへの感謝、敬意、祈りそんな態度が
合掌する姿となって表現されること、そういうことが大事なのではないかと思う。
まずそこに建物ありきでも、人ありきでもなく、心ありきなのではないだろうか。
私も自分の今までの旅を振り返る機会となった。

ちなみに前回の願い事は、叶ったので御礼参りをし、お守りをお返しした。
そうすればまた一つだけ新たに願いを叶えてくれるのだ。
特に特定の主義・思想、宗教を信じているわけではないけれど、
神や仏の存在については私は信じている。
だって、じゃなきゃお盆とかお墓参りとか、そいういう行事に参加してること自体、
説明つかないでしょ?
何も考えずに参加していることは、自ら心を空っぽにしているようなものだと思う。
その事の重大さは普段は気が付かないけれど、実はかなりの問題なのではないか。
形のあるものが全てという世の中になってしまうのではないか。
私は形のないものの方が重要で長く人の心に残り、つづいていくものだと思う。
だから祈り、願い、神社やお寺へ行きたいと思うし、そういう場所を大事にしている
京都が好きなのだ。

その後は冒頭にも書いた通り、銭湯へ。
それから2月に行った大徳寺近くにあるカフェへ寄ろうと思ったら
18:00で閉店となっており、入れなかった…
また次回行こうと思う。

昨日は移動で電車に1回、バスに5回乗ったのだけどバスではほぼ寝ていた。
やはり夏に街中を動き回るのは疲れる。背中に汗がたら~っとつたうのがわかるし、
拭いても拭いても汗がでる。
暑いからコンビニへ入り冷たい飲み物を買って出るとその温度差にやられる。
まだわりと爽やかなのでげんなりという感じではないが、
やはり夏は外に出るなら午前中と夕方にゆっくり散歩などするのがよい。

また、京都の街で着物や浴衣を綺麗に来てる人と
すれちがったり見かけたりした時に「涼」を感じた。
着ている方は暑いのだろうけど、見ている方は気持ちがいい。

どうせ暑いなら、よれたTシャツに短パンにビーサンで人々が闊歩する風景より、
凛とした姿で人々が歩く風景の方がよっぽど情緒があり涼しく感じるのではないかと思った。

一人旅の寂しさ

2006-07-30 09:28:05 | 京都
 昨日の京都はとてもいい気候だった。
夏の京都はものすごく暑いと聞いてたけど、まだ7月だからかとても爽やかな陽気であった。

昨日は京都駅に着いたのが15:35だったので、特にどこかのお寺をめぐるというのではなく、
足の向くまま気の向くままに歩くことにした。
これも何回か京都へ行ってだいたいこの辺に行きたいなというのができたからだと思う。

もう閉まっていたのだけど、バスで仁和寺の前まで行き、そこから立命館大前まで
歩いた。
きぬかけの路の手前に山猫軒というカフェがあり、そこで一休み。
この散歩路を歩いている時の空の色と虫の音と折り重なる青々とした木々の隙間からこぼれる夕陽はもう、最高に美しかった。
夏の匂い、草木の萌える匂いっていうのかしらとても情緒があった。
って今、こんな直接的な表現しかできない自分が少し悲しいけど。

一人旅はさびしいものでもある。
バスに乗り、部屋に帰り、お風呂に入っているときなど、なんとも言えない気持ちになる。ここで一杯お酒を飲み交わせたら楽しいのになぁと思う。
(一人でチューハイを空けてしまったけど…)
今まではあまりさびしいと思わなかったんだけどな。

でも、自分と向き合うのにはいい機会だ。
京都の景色や行きかう人々をみて何か思う自分の反応を自分で感じる。
ああ、私はこう思ってるんだなと改めて気がつく。
そんな時間がきっと必要だったんだと思う。
いろんな理由付けは抜きにして、
今日も心のままに歩こうと思う。

 行き先は、せんにゅう寺、鈴虫寺、大徳寺、祗園の予定。
できれば今回の旅では図書館や美術館にも行ってみたい。

夏休みの新幹線

2006-07-29 15:27:55 | 京都
13:13発新幹線のぞみに乗り一路京都へ。
子供達は夏休み中ということで自由席禁煙席はほぼ満席だ。

JR福知山線の事故のニュースを見て以来列車の先頭車両に乗るのが少し怖かったりもするのだけど…それは皆同じらしく最前の車両はいくつか空席があった。

というわけで1両目、3連シートの通路側にすわり、間もなく充電が切れそうなiPODで音楽を聴きながら目をつむる。

後ろの席ではまだ2歳くらいの女の子がギャーと泣いている。泣いているというより鳴いている。そう、赤ちゃんはパパやママに自分の気持ちを分かって欲しくてないている感じがする。
音としては耳をつんざくようなうるさい音なんだけど、なぜか愛おしい。不思議だな…

なんて思いながらも、やはりお父さんは周りに迷惑だと思ったのか、その女の子をあやしながらデッキに連れていってたけど。

これが社会というもんで、大人になるっていうのは自分が気に入らないから所構わず大声あげて泣くんじゃなくて、泣きたい時は周りの迷惑にならないように泣くってことか。

でも子供は成長の過程の中で気に入らないことや思い通りにいかないことに直面して泣いたり親に認めてもらったり、見守って励ましてもらいながら乗り越えていく。だから思うままでいい。
…ってことはそれを見守ってくれる親がいるうちはのびのびとしていられるのか?
自立しなきゃいけなくなったら?…そっか、それを親が教えるんだ。
子供の一つひとつの成長は自立の為にあるんだ。

そして今私が新幹線の中で泣きわめく2歳の女の子に教えられたように、素直にびのびと感情を表現する子供から自分が生きる意味や命の重さやを学んで、その純粋さに癒され、また自分の生き方を問われるんだ。
子供が向き合う幾多の問題を側で見守る辛さや喜び、また守るもののあることの幸せを感じるんだろう。生きることにより真剣になるんだろう。

私にも子供時代があって、今も大人になりきれない自分がいる。誰かに愛されたいし、守って欲しいし、泣きたい時は思いきり泣けるとこで泣きたいし、甘えたい。
それって子供ってことなのか?自然な感情じゃないのかな?
それを抑えることが大人なんじゃない。赤ちゃんだって、お父さんお母さんだって、おじいさんおばあさんだって、同じ人間なんだから喜怒哀楽の感情や根本的な欲求は変わらないんじゃないか。

大人になると素直な自分を出すところを社会との関わりの中で見つけていかなきゃいけない。人は一人では生きていけないから集団で生きる上でのルールを守らなければ関わりあえない。イコール生きていけない。だから社会に関わりルールを守りつつ自分が自分らしく自由な気持ちでいられるように人と関わる。
親元で基本的なルールを教えてもらった後は、実社会で実践し、また成長していく。

それから次は自分が守る立場になり、更に人としての重大な責任を負ことになり、成長していく。

親ってすごい。

やばい、一人で新幹線の中で泣きそうだ。


でも、親ってすごい。


さっきの女の子はまだデッキで泣いている。今度は泣いているって感じだ。そしてお母さんにだっこされている。もう疲れちゃったのかな?色んなことを感じてるんだろうね。


あと10分で京都だ。


私は自分らしくいられる場所の一つとして京都とブログを選んだんだなと思った。

旅にでる

2006-07-29 10:14:26 | 京都
京都へ行くことにしました。

29・30・31日の2泊3日の一人旅です。

あれこれ考えるのに疲れてしまった。思い通りにいかないことが沢山あってそれを受け止めようとする自分とのせめぎあいがあって。今朝宿だけとったので、地元の友達に会ってから新幹線に乗ります。


2006-04-11 00:54:26 | 京都
 京都に着いたのが6:30、真っ先に向かったのが清水寺だった。

午前中は
京都駅→清水寺→二年坂、産寧坂→円山公園→知恩院三門→平安神宮→哲学の道→法然院

午後は
三条河原町→四条河原町→京都駅→嵐山(天竜寺、渡月橋)→四条河原町→京都駅

というコースをたどった。
とにかく京都の桜はスゴイということだけが頭にあったので、
「見なくちゃなんねぇ」という思いで歩きまくった。
朝一番に清水寺と円山公園の桜を見ておいたのは正解だった。
清水寺方面のバスも京都駅からは7:40が始発だったから、
6時台から迷わず歩いて東山へ向かって良かった。

きっとこっちだろうな、と思って行くとだいたい思う方角へいけるのが京都中心部の街の便利なところだ。7:30には清水寺に着いた。

でも何より、今回円山公園のしだれ桜を見て、これが見たくて京都へ来たんだなと思った。
嵐山の渡月橋や天竜寺のしだれ桜、哲学の道、清水寺など・・・今回まわった所の桜は一番の見ごろで素晴らしかったけれど、とにかく人が多くて情緒を感じるということがあまりできなかった。
でも、この円山公園のしだれ桜はとにかくくっきりとその存在感が際立っていて、最高に美しかった。この旅で写真はデジカメで50枚くらいとった(これは携帯で撮影)けど、美しさを切り取る写真として満足いくものが撮れたのは円山公園のしだれ桜の写真、たった一枚だ。

 桜が満開で日曜日で天気もわりとよかった・・・そのためにバス停に並ぶ人の多さや嵐山の渡月橋付近を歩く人の多さ、自分も含めてカメラ片手にうろうろしている人の多さには・・・うんざりしてしまった。人を写さないように風景を撮るのが大変・・・。そりゃ最初から無理があるんですよね、みんなして見にきてるんだもの。

哲学の道より、高瀬川沿いの桜並木をのんびり歩いている時の方が情緒を味わうことができた。でも、1月に行ったときにはしーんとしていた哲学の道が賑わっていたのを見ていて春の訪れを実感したのだけれどね。
つい3ヶ月前に来たときの自分と比べた。
1月に出会った桜たちは見違えるように美しく咲き誇っていた。
でも次に行ったときは違う楽しみ方ができるんじゃないかと思う。

 あとは、ミーコの首輪につけていた天竜寺の健康お守りを天竜寺へお返しにいった。去年もらったものだったのだけど、ミーコの手術後にそのお守りを首輪につけた。命を一日でも長くと守ってもらったのだと思う。

 桜は勿論見事だったのだけど、もう一つ素敵な出会いがありました。
・・・四条河原町の路上で「あなたを見てインスピレーションでその場で言葉を書きます」という人がいて、妙に気になって私も描いてもらったのだ。
書くというより、言葉を描く人だった。
私の前に並んでいたおじさんは、どうやら東映の殺陣師さんらしく「東映」という言葉を入れてもらっていた。
なんといっても描いているお兄さんがとても素敵で私のタイプだったからっていう理由が主なんですけれどね。
よく路上で絵を売ってる人、描いている人はいるし相田みつをっぽい作風で言葉と絵を組み合わせて描いている人は沢山いる。でもお客さん一人ひとりを見てその場で一瞬で書くというんで、一体自分は人の目にはどう映るのか、そしてどんな言葉を投げかけられるのかとても興味があったのだ。

頭にタオルを巻いて、5本指ソックスをはいた大変美形のお兄さんに見つめられて緊張し・・・なおこという自分の名前をお兄さんから差し出されたメモ帳に書くと、
「なおこさん。・・・じゃ、いきます」と言われてから数秒後、お兄さんは一気に書き始めた。
でも隣でさっきの東映のおじさんが話しかけ続けるので「まちがえた・・・」だって。
すぐにもう一度一気に書き上げた。
「じゃ、読みます。

 台本どおりにいかん
 なおこの道。
 でも 
 それでよい。
 それがよい。
 うまくいかないことが
 成長の一番の近道。

 微妙ですか・・・?」

「いや、ズバリです」
正直、JRのCMに心を揺さぶられて桜を追いかけてきたものの、桜は確かに素晴らしいけど、思うように綺麗な写真はとれないし、人は多いし、疲れるし・・・なんだか今回はせっかく京都に来たのに、精神的に落ち着かないなぁ、思っていたのと違うなぁとちょっとイライラしていたところもあった。
疲れた顔をしていたんだろうな。この旅に至る経緯も顔にでてたのかな。
一瞬にしてこういう言葉をくりだせるっていうのは・・・才能なのかしら。
お兄さんは何かを感じ取り、それを表現してくれた。
バスの中や新幹線で何度もその言葉の書かれた紙を取り出し、眺めた。
そのお兄さんはチラシをくれて、それによれば私と同い年だった。

 色んな人がいるものだ。
とにかく、この言葉が書かれた紙はかなり大切な旅の思い出となった。
そのお兄さんには御代を1000円払った。
夕方19時ごろ再びお兄さんがいたところへ行ってみるとお兄さんの姿はなく、今度は別の人だかりができていた。
「7歳のジャズドラマー大我」君なる少年が大人顔負けの情熱でドラムを叩いている。
思わず足を止めて夢中になって聴いていた。
チラシをもらい、それによれば・・・天才ベーシスト(渋谷のバーのマスターが熱く語っていた)ジャコ・パストリアスバンドの看板ソリストとして活躍し、ハービーハンコック(これもマスターが熱く語っていたジャズピアニスト)と共演したスティールドラム奏者オテロ・モリノーなる人物とセッションすると書いてある。
世界最年少ジャズドラマー大我君はどうやらすごい人物なようだ。

 というより、演奏を聴いていて、7歳の少年は悔しいくらいに楽しそうに、セクシーに演奏するからこれは本物だと思った。
最後まで演奏を聴いていたら、乗らなきゃいけなかった新幹線ひかりに乗り遅れ、帰れなくなるんじゃないかとひやひやしたけど・・・楽しい一人旅でした。

桜の都へ

2006-04-09 01:28:24 | 京都
ずっと考えていたのだけど、行くことは今日決めた。また京都へ行くことにしました。
というわけで今再び高速バスに乗り、京都へ向かっている。1月に行った時とどう違うのかな。
どうやら9日は天気がいいようなので楽しみだ。京都の桜を見るのは初めてだぁ~
今回乗った高速バスでは後ろの座席に人がいないので気兼ねなくリクライニングを倒せる。幸せだ‥前回は一睡も出来なかったけど、今日は寝られるかな。
今まで行きたいと思って行った旅はいくつかあるけど、その時行くことを決断して良かったなと後になって思う。そうしないと、なかなか行く機会を逃してしまうから。
日曜日だし、天気もいいらしいし、桜は見頃だしすごい人なんだろうなぁ‥泊まらないけど一応、宿があるかを調べてみたら、京都市内の宿の空室はなかった。車中泊です。
 楽しみだなぁ‥


ただいま帰りました

2006-01-16 00:22:39 | 京都
 22:30、帰宅~~~~~。
いや~楽しい旅でした。
京都からの記事は携帯電話での投稿だったので文が乱れたままですが、
少しずつ編集していこうと思います。
 19:00京都発ひかりの新幹線に乗り、東京に着いたのが21:40…
はやいはやい。車内ではしっかり眠れたし、自由席だけど余裕で座れたし、足は適度に伸ばせるし、帰りはもう楽チン極まりなかったです。
 埼玉についてから一応家には連絡をし、
母は「迎えにいこっか?」とたずねてきたので
「来てくれるなら、頼みます」と答えたら
「お父さんが自分で帰ってこいって」というので普通に駅から徒歩で帰ることにした。
別に期待してなかったのに、期待をもたせて落とす、という…相変わらず母は天然である。
 地元の駅についても、旅から帰ってきたときの「あーあ…現実が待ってるよ」というがっかりした気持ちはない。むしろ、また今度京都に行ったらここに行こうとか、もっと調べようとかそんなことを考えている。
やはり、家にとじこもってじっとしていはだめなのだ。
お金がなきゃはじまらないけど、わがままと言われようとそれも自分の責任として負った上で、行動していないといつまでたっても井の中の蛙なのだ。
 埼玉は特に誇るもの、特筆すべきものというのがない。
少なくとも今の時点ではそう思っている。
私自身もない。だからこそ、個性的なものや何か秀でたものをから受ける刺激は大きく、感じることもあるのではないのかと思った。
埼玉にだっていいところはきっと沢山あるはずなのだ。
自分達の住む町のいいところを知ってそれを磨き上げていけばいいんだ。
 京都には京都だから育った文化があって、そこに住む人にはそれが当たり前になっているけど、埼玉には埼玉の文化があって、情熱を持って生きた人がいて、それを見出して大切にすることができたら…
最高なのに。
京都で感じた見せ方、考え方、心というものを研究して真似ではなく、地元に生かせたらと思う。

 そんなことを考えながら家路についていると一台の白い車がゆっくり近づいてきて
私の前で止まった。
あやしいあやしい!と思っていたら中から人がでてきた!

 …襲われる、絡まれる、と思ったら、父でした。
どうやら母に迎えにいけと言われて駅で待っていたらしい。
「なーんだよまったく母さんはいいかげんだよなー」
確かに。
私はなんにもしてないよ。
家まで歩いて10分ちょいだし、最初から徒歩で帰るつもりだったし、
「自分で帰って来い」と言われたから普通に帰ってきただけだよ。
私には自分で帰って来いと伝え、父には迎えにいけといい、
自分では迎えにいかない母。むちゃくちゃじゃん!
でもちょっと面白かったのはなぜだろう?
結局父とおちあえたからかな。
「ちょっと脅かそうと思って」と悪びれる様子もなく母はいう。
そんなどっきりいらないよ!本気でびびってしまったよ。

 私がすっとぼけているうえにわがままなところがあるのは母の血なのかな…
と人のせいにしてみたりした。でも多分そうだ。

 家に帰って自分の部屋に入ると、おとといのままだった。
でも、部屋はおとといのままでも京都へ旅立った私がここにいる。
家は居る場所ではなくて、帰る場所なのだと思った。

嵐山~大徳寺

2006-01-15 14:58:10 | 京都
 いや~いい天気だ~!気温は11℃、上着を着てマフラーでもしていれば全然寒くないです。青空もみえて天晴です。は~、幸せ‥。

 午前は京都駅からバスで鈴虫寺へ行き、500円払ってお茶とお菓子とお坊さんの説法を聞いてきました。ここにはわらじを履いた幸福地蔵さまがいて、一つだけ願いを必ず叶えてくれるのだそうです。願い事を一つ、しかも必ず叶うと言われると‥なかなか絞れないもので己の欲深さを感じました。お坊さんのしゃべりの腕はさすがでした。お地蔵様には自分の住所と名前を言うんですが‥名のり忘れた!わらじを履いているので自宅まで来て願い事を叶えてくれるらしいんですが‥来てくれるかな‥。鈴虫は確かに一年中鳴いているようですが‥そこには3代にわたる住職の努力があるようです。

 ちなみに苔寺は鈴虫寺のすぐ近くにあったけど道路の渋滞などの問題があって普段は予約しないと参詣できない、と門に書いてありました。

 11:33、またバスで戻って数分、嵐山で降りると渡月橋が目の前に‥
川面がキラキラと輝いて美しい‥
渡月橋かかる桂川沿いを天龍寺方面に歩いていると竹林の葉がさらさらとこすれる音、暖かい陽の光を背に鐘の音が遠くで聞こえました。
ポケットに手を突っ込んで少し冷たい風にふかれながら道路にうつった自分の影をみながら歩いていると‥心の中にささったトゲ、いやごろごろとした黒い石の塊のようなものが雪解けのように融けていくようなそんな気持ちになりました。

 天龍寺では以前見られなかった龍雲図をみてきました。お庭はまた今度にして、500円払ってお堂に入ると‥ 天井一面の大きな龍が睨みをきかせていました。試しに絵のまるい輪郭にそって歩いてみると、本当に目がぎょろりと動いているようでずっとこっちを睨んでいるようにみえました。そして龍が下にぐぐっと降りてくるような感覚‥は少しわかったような気がするけど、燭台があり一周できなかったので‥なんとなく動いた気がしました。それにしても迫力があった‥

 それから嵐山電鉄にのり、バスで大徳寺前へ。
どうにもお腹がすいたので、今さっき「レモン館大徳寺前店」という喫茶店でぜんざい700円をいただきました。
この喫茶店はたまたま入ったとこですがBGMもインテリアもマスターの品のあるおばさまも、素敵です。
お店の窓の曇りガラスから差し込む柔らかな光(一番上のガラスだけ透明)、窓の下にはターンテーブルにアナログレコード盤、その隣りには『スイングジャズジャーナル、ジャズレコード百科』なる雑誌が‥
活けてある花も、千両、白いカラー、梅?などがさりげなく棚の上やカウンター、壁などにいけてあります。
壁には畳1畳以上の大きさの絵が‥今マスターに伺ったらなんとご自身で描いたらしいです。なんかそんな気がしたんだよな。デザートもありカレー(サラダつきで800円)やスパゲティもあります。普通観光名所のそばの飲食店って高いと思うんですが、大徳寺のそばでこの値段、東京の喫茶店でくつろぐのとさして変わらないです。値段、雰囲気、飾らずさり気ない気配りをしてくれるマスターの人柄‥ぜんざいそのものは普通においしかったのでこのバランス感覚に脱帽です。
 感動のあまり、「ごちそうさまでした」と案内希望の署名の紙をわたし、挨拶して店を出ようとしたらお金を払い忘れてて、無銭飲食しそうになりました。我ながら自分のボケ加減にびっくりでした。