風に吹かれてぶらり旅

まっすぐに生きる人が好き

命について

2009-03-24 20:30:55 | 徒然
私は何の為に働いてるんだろう。
何の為に生きてるんだろう。
何故生まれてきたんだろう。

私は「生かされている」

そんなのわかってる。
今まで何度もその答えに導かれた。
私の命は宇宙のチリ、
私一人いなくなっても
地球や宇宙の視点からみたら
何事もなかったように命の営みは続く。

なのになぜ私はここにいるんだろう。

(もし、今これを読む人のなかで身近で大切な人を失ったり、病気と戦っていて、命について書くことで気持ちを傷けてしまったら、ごめんなさい)

存在するということはいる必要があるからいる。
生きている役目を終えたなら死ぬ。

でも死とは一体何なのか。
肉体が機能を停止することなのか。


…だとしたら今ここに生きていることはものすごい奇跡なんじゃないのか。

食べなければ
排泄しなければ
呼吸しなければ
体温を維持できなければ
眠らなければ
服を着て体を守らなければ

簡単に死んでしまう。

鳥のように空を飛べるわけでもなく
馬のように速く走ることもできず
光合成をして酸素を作ることもできず

植物や動物を捕って食べ
泣き 笑い わがままをいい 文句をいい
自分がどうしたら幸せになれるか
を考える私。

そんな弱い私はなぜ生きているのか。


…なんでこんなことを考えたかというと
私は今ここにある当たり前の毎日に感謝をしたいから。
本当の自由を手にしたいから。

心にあるもやっとした気持ちを
ブログにスケッチして客観視しようとしてる。
自分を理解しようとしてる。

…そうか、私は自分のことをわかっていないんだ。
私のなかに、まだ知らない私がいるんだ。

沢山の私の余計な心配や思いをかきわけて、本心や本当の言葉に出会うこと
新しい自分に出会い続けること
それが成長するってことなんだ…きっと。

だから歩みをとめたら成長がとまる。
現状で満足したらそこがゴール
そこで終わり。
つまり、それは死を意味するのだろうか。

肉体は機能しても、新しい自分に出会うことをやめてしまったら
死んでいるということなのだろうか。

もしそうだとしたら
肉体が滅びること=死
じゃないんだ!

今私が、この体を使って生きている私が
自ら新しい自分に出会うことを諦めてしまったら
そこで私は死ぬんだ。

死ぬというより、止まるという方が正しいのかもしれない。

なら、この体を使って新しい自分に出会う旅を続けることが
生きるということなんじゃないか。

そして私が私である理由は
この肉体を持って生まれことだ。
それは間違いない。
私であることはこの体であること
私の両親から生まれたこの体であることが
私が私である根拠だ。

私という意識だけでは今の私はありえない。
私の体だけでは「私」の心がない。

私の体は
両親や祖父母やずーっと昔の先祖、
私が食べてる動物や植物、水
自然環境、育ててくれた人
がいて、維持されている。
私は心と体の二つ
実際には沢山の命に守られて支えられている。

支えられてばかりではいけない。
私も何か、他の命を支えなきゃバランスが悪い。
いる意味がない。

かと言って宇宙のチリである私に他の命を支えることなんて
あるのだろうか。
無理して苦しいことはしたくないしなあ。

私ができること=私(心+身)ができること
心=新しい私に出会うこと
体=生まれもった体、生まれ育った(現在も含めた)環境

そう考えると、「体」には制約があるから割と楽に「今自分が何をすべきか」を特定できそうだ。

ほらまた私は新しい自分の文章に出会うことができた。
このブログ、携帯、読んでくれたあなたに感謝。

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