「詩仙堂」というのは、正しくは部屋の名前なんだそうです。
知りませんでした。
詩仙堂(丈山寺)は、徳川家康に仕えた武将石川丈山(じょうざん)が59歳の時に建てたもので、36歌仙にならい36人の詩人を選び、その肖像を狩野探幽に描かせて、肖像に丈山が各々の詩を描いたものが四方に貼ってある部屋があり、その詩仙の間を中心とした建物のことなのだそうです。
9枚×4面という並びが私には新鮮でした。
36という数字は12×3という式がまず浮かぶからかな?
天井の直ぐ下に、9枚数えたら…ちゃんとありました、って当たり前か。
でも9という数字は、特に昔は避けられることが多いと思ったので意外だったのです。
絵具の凸凹が見えて、探幽直筆の絵なのか~~~!?と興奮しました。(実際のところどうなのかは聞き忘れた)
貰ったリーフレットによると、石川丈山は「33歳の時、大坂夏の陣では武勇先登の功名を立てたが、この段を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人藤原せい窩に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野候に十数年仕えた。」そして54歳で京都に戻り、59歳で詩仙堂を建てて、90歳まで書や漢詩、茶を楽しんだのだそうです。
丈山と時代も立場も性別も違うけど、今一つだけある共通点は「33歳」という年齢だ。今日来て初めて知り、気がつきました。
何となく、身近に感じるというかイメージができる。
武将として経験も重臣としての信頼もあり、バリバリの一番の働き盛りに、戦うことをやめる決断をしたこと。
そのまま徳川家に仕えていたら、ルールを破り一度は蟄居させられてもまだまだ活躍できる年齢だし、忠誠心からの咎めは早々に解かれていただろう。
その後始まる徳川江戸幕府の政治に大きく関わる人物になっていたかもしれない。
この年齢で仕えることを辞めた丈山の一人の人間としての気持ちが迫ってくる。
武功をあげたい、という認められたい欲求が全くなかった訳じゃないのではないかと。
私は女だけど、仕事で成果を出して評価されれば嬉しいし、認められたいと思う。
命のやりとりを経たわけではないし、比べるのは全くナンセンスかもしれないけれど、色々な葛藤を経て決断した時の思いが少しだけ分かるような気がした。
いや~それにしても寒かった…。
でも庭も建物も雨の景色も全て美しかった。
誰もいないかと思ったら、3~4人既に先客がいたので、気候の良い時は結構混むのかもしれない。
「一乗下り松町」バス停から東に徒歩5分で詩仙堂です。向かう途中に4代目「一乗下り松」がありました。
(写真を載せようと思ったけど、実物は行って見ないとね)
宮本武蔵が吉岡一門と決闘した場所だそうです。
戦いを見下ろした初代の松は近くの八大神社にあるそうです。私は今回は行きませんでした、何となく。
またこの辺りは曼珠院、金福寺、足をのばせば修学院離宮など見処が多くあります。
また一乗界隈は個性的な書店が沢山あるのだそうです。
いつかゆっくり京都へ行く時に参考にしようととっておいた雑誌『ダ・ヴィンチ』2012年5月号の特集記事に本好きの芸人ピース又吉さんが京都の書店を紹介しており、又吉さん含み笑いをしながらが嬉しそうに本を抱える写真が掲載されていて、是非行ってみたいと思ったのでした。
ちなみにこの特集は中身が濃くてディープな情報が盛り沢山です。「完全保存版」と書いてあったけど、本当にそうだと思いました。
…でもここに紹介されていた書店やお店はまた今度いこう。
何泊かできる時に、また天気の良い日に歩くことにします。
バスで京都中心部に戻り、只今祇園のスタバでコーヒーブレイク中です。
一息ついて、またぶらぶら歩こうかな。