エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

歸國というテレビドラマ?

2010年08月15日 | 日記
ぼくは、今でも憧れている女優「八千草薫」に会いたくてこのドラマを見たのである。
八千草は、最近サプリメントのCMでしかお会いできないので残念である。



齢を重ねても、この可憐にして童女のような雰囲気を湛(たた)えている。
誠に上品な佇(たたず)まいである。

ぼくは、彼女を山田太一の「岸辺のアルバム」で見初めたのであった。
山田太一氏のシナリオの特徴を見事に演じきった彼女は素晴らしかった。

会話を積み重ねて情景や心象風景を描き出すシナリオは、あたかも一点にキャメラを固定して映画作りをした「東京物語」の小津安二郎監督の作風にも似ている。

そして、もう一つ八千草の個性をさらけ出したテレビドラマ「うちのホンカン」が大好きである。



これは倉本聡のシナリオである。
モノローグをもってドラマを進める作風は、山田太一とは対極を為すものである。



実に初々しく演じている。
ホンカン役(駐在さん役であるけれど)の大滝秀治がまた素晴らしかったのである。

がなり立てる大滝に対して、モノローグで自分を主張しつつ大滝を支える駐在さんの妻役を新鮮に演じたのであった。



倉本聡である。
このドラマが舞台で演じられるものである事は知っているのだけれど、倉本の筆に期待していたのである。

「北の国から」で熟成を重ねた筆。



「風のガーデン」で円熟を示した倉本である。
緒形拳の表情が辛い!

こうした緒形の生と死も、倉本がテレビの世界で積んできた経験である。


さて「歸國」である。

東京駅にダイヤにはない一台の軍用列車がやってきた。
降りてきたのは65年前に南海で散った人々の亡霊だった。

いや、靖国から65年ぶりに現生に表れた英霊たちである。
使命は平和になった日本の現状を戦死者たちに伝えることであった。

彼らは今の日本に何を見るのか・・・?

いくつかのキーワードが提起されるけれど、やはりテレビというメディアにはそぐわないのである。

ぼくは少しばかり「ガッカリ」したのである。

堀真がいきなり八千草になったり、テレビではあまりの非現実がリアリティーを持ったりするものだから、このテーマには合わないのである。

テレビが家庭に入り込み過ぎている現実を承知して作らないといけなかったのではないだろうか。
テレビが生活と一体化してしまっているからこそ、このシチュエーションは、いただけないのである。

かてて加えて、お笑いが席巻するテレビという「あまりに軽い」メディアであること。

このドラマは失敗ではなかっただろうか?

何より、英霊が現生を徘徊してはいけないし、現生の人間を殺めてはいけないのである。
靖国の合祀問題や、閣僚の参拝問題、高齢化社会の諸問題など、別にこのドラマで教えていただく必要は無いのである。

長渕なる歌手が「水漬く屍、草蒸す屍」を論ずる。
倉本が直接お願いして出演してもらったらしいのだけれど、ミスキャストでなかったのか。

永渕なる歌手のどこに、いや永渕のどこで、何を、訴えようとしたのか。

役者たちが可哀そうである。

このテーマは、やはり舞台で表現するべきものである。

生の声でセリフを聴き、目の前で役者に動いて頂いて、観るものとして得心しながら舞台とともに理解を深めるべきである。

最後に「海行かば」とともに白い鳩が空を飛んで雲の彼方に消える。
するとキャメラは下界の蒼い蒼い海を映す。

群青の海である。
穏やかな海である。

これはキャメラワークの良さだけで語っている。
このエンディングの前のドラマが語っていない。


残念ながら、倉本氏はまだ巨匠とは言えないのかもしれない。






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