これは2013年8月20日に投稿した記事の一部に手を入れたものです。先日物故された不世出の俳優・高倉健への追悼として再掲します。
高倉健・主演『あなたへ』をテレビで観た。テレビで映画を観る際は、気をつけなければいけない。編集してある場合が多いからだ。カットしすぎて、まるで別物になっている時もある。アニメ『サマーウォーズ』がそうだった。劇場版やDVD版とは違う代物を見て、文句をつけるような迂闊なまねはさけたいと思う。
ただ、『あなたへ』はノーカット放送ということで、その点は安心してもよさそうだ。いつも映画や小説の感想を書く時は、あらすじを初めに記すのだが、今回はそれは省略したい。それでいて、内容の核心部分にはふれる。つまり、ネタバレを含むから、この作品をご覧になっていない方は、今回の記事はお読みにならぬほうがよいかもしれない……。
何組かの夫婦が出てくる。高倉健と田中裕子。長塚京三と原田美枝子。ビートたけしとその亡き妻(これは話の中に出てくるだけで、役柄としては登場しない)。草彅剛とその妻(これも話の中だけで、実際には登場しない)、佐藤浩市と余貴美子、そして綾瀬はるかと三浦雄大。最後の若い二人だけはまだ結婚していないが、遠からぬうちに夫婦となる。
六人の男たちの中で、定住しているのは長塚京三と三浦雄大だ。土地に根を下ろしている感じがする。その安定感は、妻との結びつきの強さに比例しているようだ。いっぽう、ビートたけし、草彅剛、佐藤浩市は放浪している。旅ではなく、放浪をしているのである。旅と放浪との違いは、帰る場所があるのか否か。このことはわざわざ種田山頭火を引き合いに出してまで強調される。この作品のテーマのひとつと言っていい。たけし、草彅、佐藤には帰る場所がない。このうちでもっとも切実なのは佐藤で、その次がたけしか。草彅はまあ、この二人ほどではないが、しかし本人にとっては深刻だろう。
健さんはどうなのだろう。退職願を出して出発したが、長塚京三は受理しなかった。「休暇として処理しておくから必ず帰ってきてください。」といった。しかし健さんは、ラストでひとつの大きな罪を見逃した。長年にわたって実直に刑務官を勤めてきたひとだ。いまは嘱託とはいえ、この人の性格からして、ふたたびこの職に戻るだろうか? いや、その前に、いかに長塚に慰留されても、やはり辞めるつもりだったようにも思えるし、田中裕子の遺骨を海に還したことで、その決意は揺るぎないものになったのではないか?
旅と放浪とのもう一つの違いは、目的があるのか否か。遺言どおりに局留めの手紙を受け取り、亡妻の遺骨を海に撒いた時から、すなわち目的を果たしたときから、健さんもまた、放浪のひととなったのではないか。そう考えて初めて、ラストシーンが胸に沁みるのだ。
たいせつな比喩がふたつ出てくる。ひとつは「季節はずれの風鈴」である。「早く取り込んであげないとね。季節はずれの風鈴の音は寂しいもの……」というようなことを田中裕子がいう。これは冒頭とラスト間際と、二度にわたって回想される。季節はずれの風鈴とは、健さんの中に残った妻への未練だと思う。「想い出」とは違う。「想い出」を忘れることはできないし、田中裕子もそれを忘れろとまでは言わない。ただ、「未練」は片付けられるものかもしれない。
観ている間は、夫婦の情愛を描いた映画だと思っていた。田中裕子は、ほとんど塀の中の世界しか知らない健さんに、外に出てもっとたくさんの人と出会って欲しかった。そうすることで、自分の死を乗り越えてくれるよう願った。そうだとばかり思っていたのだ。しかし、見終わって時間が経つにつれ、そうではないと思えてきた。じつは、これはたいへん哀しい話ではないか。ある意味では残酷な話といえるかもしれない。
観客のほとんどが、たぶん不満に思うはずのことがある。田中裕子が愛したという男はどうして登場しないのだろう。彼はなにかの罪で服役していた。田中裕子は彼の姿をひとめ見るため童謡歌手として慰問に通った。やがて彼は、就業中、ふいの病で急死してしまう。それでしばらくのちに彼女は健さんと結婚するのだ。
配役を見たとき、ぼくはビートたけしがその男だろうと当たりをつけた。それくらい重要な役なのである。じっさいには顔を見せないまでも、話の中で過去のいきさつに触れられるくらいは当然だ。もしくは、慰問に訪れたとき、ステージの上から彼女が送る視線の動きで、その存在を観客にそれとなく知らせるくらいの描写はあってしかるべきだろう。これはシナリオと演出の不備である。最初はぼくもそう思った。しかし、鑑賞後にしばらく余韻を味わううちに、そういうことではないと思えてきたのだ。
田中裕子の愛した男がいっさい姿を見せない(話の中にさえ)のは、彼があまりに重要すぎるからである。彼女はまだその男のことを愛しているのだ。健さんのことはもちろん好きだし、一緒に暮らした日々は楽しかったし充実していたし、心あたたまるものでもあったけれども、それは本当の愛とは違っていた。
登場する六組の夫婦は、いろいろな形で対比されていると思う。綾瀬はるかと三浦雄大の若いカップルは、かかあ天下予備軍というか、そうとうな女性上位である。綾瀬はるかは言いたいことをぽんぽん言う。それでいて、三浦雄大は深く広いやさしさで彼女のことを包んでいる。健さんと田中裕子は、よそよそしいというほどではないけれど、どこか互いに気を遣っていた。年齢のこともあるのだろうし、人生の半ばを過ぎて一緒に暮らし始めたせいもあるのだろうが……。
原田美枝子は、夫である長塚京三に、「わたしは散骨はいやだな……」というようなことを述べていた。散骨とは、夫婦が一緒のお墓に入らないということでもあるのだ。田中裕子が故郷の海に還りたいと願ったのは、それが愛した男の故郷でもあったからではないか。だからこそ、健さんはその場所まで足を運んでいながら、散骨を「迷った」のだろう。
「季節はずれの風鈴」と並んで、もうひとつの大切な比喩は「雀」である。なぜ田中裕子は雀の絵を健さんに遺したのか。彼女の愛した受刑者は、服役中、毎朝そっと雀に餌をやっていた。田中裕子は自分のことをその雀に託し、それを絵にして健さんに委ねたのである。健さんならば、その思いをわかってくれると信じたから。
しかし健さんは、すぐには分からなかったように思う。このあたりの機微はもういちど見返さなければ確かなことは言えないが、すぐには分からなかったように見えた。わかりたくなかった、というのが実情に近いかもしれない。最後に背中を押したのは、余貴美子の「夫婦だからって、ほんとうにお互いのことを分かってるとはかぎらない……」という言葉だろう。それでようやく「迷い」が消えた。大滝秀治のもとを再び訪ねる決心がついた。
ラストシーン、海辺のテーブルで健さんは佐藤浩市に「受刑者と外とを連絡する者のことを鳩という。自分は今日、鳩になりました。」と言った。たんなる偶然の一致ではあるまい。なにしろこれが、この映画における健さんの〆の台詞なのである。田中裕子の「雀」と健さんの「鳩」とが切ない対照をなしているのだ。そして健さんはここから、先にも述べたとおり「放浪」に出るのである。
いくつか物足りなさは感じた。しかし、それを補って余りあるだけの作品だと思った。これが遺作となった名優・大滝秀治の決めぜりふを借りて言うならば、「久しぶりに、大人の映画ば観た……。」という気がする。
ただ、私は、この映画を観て、なぜか哀しくて哀しくてしかたがありませんでした。
でも、なぜ自分がそんなに哀しい想いになるのか、わからなかったのです。
その哀しみがわかりました。
私は、人生は、基本的に哀しいものだと諦めています。
そんな自分には、落ち着いて観られる映画でした。
音楽もよかったですね。
阪神タイガースの優勝エピソードが、阪神ファンとしては少し恥ずかしいです。
コメントありがとうございます。
ハンドルネームが目に入って、「はっ。」としたんですが、よく見ると一字違いでありました。
そうですね。テレビで観たとき、ぼくも初めはよくわからなくて、それでも哀しい気分になって、これは一体どうしてだろうと考えて、半日くらい色々と、ああでもない、こうでもないとアタマをひねって、それでここに述べたような結論に至りました。
ひとは結局、ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。つまりはそういうことなのでしょう。そのテーマが全編にわたって底流に流れているから、こんなにも哀しいんでしょうね。
ただ、だからこそ、この世で出会って何かしらの縁を結んだ相手はできるだけ大切にせんといかんなあ、とも思っています。
ほんとうに、健さんの遺した最後の映画にふさわしい名作でした。