季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

死語

2018年09月01日 | 音楽
レストランに行ったとしよう。

大変美味しいと感じた場合、またその店に来ようと記憶に留めるだろう。料理に情熱を持つ人ならばその味の秘密はどこにあるのだろうと舌で探ろうとするかもしれない。

いずれにせよふふん、味はとても素晴らしいですね、、と言いつつ素通りすることだけはあるまい。料理人のセンスと努力を想っているわけである。

味は素晴らしいですね、、の後につけ加わるとしたならば、しかし店内が不潔だ、とかウェイトレスが無愛想だったといった不満くらいだろう。

これがピアノ演奏となるとどうだろう。
音が綺麗ですね、と軽いノリでお愛想だ。
その調子は脚が長いですね、というのと同じような響きを持つ。

脚が長い、、、憧れてしまうね。僕は気が長いと言われたことはあるが脚が長いとはついぞ言われたことがない。言われることはないと半ば、いや完全に諦めておる。

努力して脚が長くなるものならとうの昔にしていただろう。遅まきながら今もするかもしれない。

しかし見よ!胸板を厚くするとかお腹を引っ込めると謳った器具は手を替え品を替え現れるが、脚を長くすると謳う器具は何処にも無いではないか。(あったら教えて貰いたい。厚底靴ではないぞ)

つまり脚の長さは天から授かった特典なのだ。本人は何の努力もしないまま人々の羨望の眼差しを得る。

しかし音が美しいというと話は別なのである。これは得ようと努めて得るなにものかなのだ。天から与えられたものではない。ヴァイオリンやクラリネットの音を考えてみても良い。

流石にヴァイオリンでは美しい音は賞賛の対象になってはいる。ピアノの音でも事情は同じなのであるが。

汚い音を出さないことと美しい音を出すことは全く違うことなのだが、そこの差異を聴くことが困難なのだ、慣れるまでは。汚い音を出さないのは簡単である。フニャフニャ弾くだけで良い。

慣れぬ耳には美しい音も似たようなものに聴こえるのだ。そこで音は綺麗なんですね、という脚の長さを羨む時のような挨拶になるのだろう。

かくしてピアノ演奏における美しいという言葉は半ば死語と化している。忘れてはならないのはプロコフィエフでもラフマニノフでも美しい音の中で曲想を練ったのだということだ。