季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

部活事故

2015年06月02日 | その他
柔道部でまた死者が出た。

このところ人間ピラミッドに関する話題が再燃しているようで、それについて改めて感想を書いている最中だった。

亡くなった女の子には哀悼の意を表することしか出来ない。

原因として基礎をおろそかにする風潮、国際化する中で柔道が変質している、等々が挙げられている。

一つ一つはなるほどもっともだと、つい思ってしまう。しかし例えばフランスは柔道人口がずっと多いのに死亡事故はないという。学校内での死亡数が100を優に超えるのと余りにも違う。それを知ったら何かが根本から違うと思うのではないだろうか。

こうした事故の後に何とかしなければ、と掛け声はかかる。当然だ。

ただそれも月日が経つにつれ消えていく。対策はせいぜいが上記のように
基本をしっかりを徹底する、と確認するくらい。

原因は、フランスの例との余りにも大きな差を見ても、そう単純なものではないだろう。

それが何であるかを追求するのは大切だが、その間にも次々と事故は起こり得る。

ひとつ質問を。万全な対策を探しあぐねるほど危険でもある競技を学校という場でする必要があるのだろうか。

その手の疑問は多分多くの人が持つと思われる。しかし疑問は疑問のまま放置される。疑問をなお深く追求するには、学校に部活は必要か?というタブー化した問いかけに足を踏み入れることにもなるから。

結局この時点で足踏みしてしまうのがあらゆる局面における日本の最大の問題点ではないだろうか。

昨日もPTAにほとんどの親が疑問を感じているにもかかわらず、存続は不要とする人はたった4%だとあった。親と学校が無関係なのはまずいという「良識」が不要と断じるのをためらわせるのだと思う。

これにしても不要か必要かを含めて徹底的に論じずに(在り方に疑問ならね)うやむやに先送りするだけ。何十年後にも同じ不満と問題提起だけがあるだろう。

そもそも教師と親の関係が必要かという質問設定がいけない。常識的に答えれば必要に決まっている。それが今のような形でなければならないか?という話にならなければいけないではないか。

部活の事故対策にしたところで、部活は必要だと結論だけがある。その理由は学校は勉強の場だけではいけないのでは、という「良識」である。つまり社会を学ぶ場でもあるのでは、という漠然とした雰囲気があって、結局うやむやになる。

これだけ死亡事故が多発する柔道を体育の授業にまで(ほとんど)必修の形で取り入れる理由は一体何だろう?

間違えないで貰いたいが、僕は柔道という競技を否定しているわけではまったくない。

続きは人間ピラミッドについてやFIFA(国際サッカー連盟)についてで。