季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ハイドンと田舎臭さ

2015年07月02日 | 音楽
7月の講座案内に寄せられたコメントへの返信として書いておきたい。

前回の講座はハイドンのソナタのレッスンがメインだったのだが、途中僕が「今のは田舎臭い」と口走ったそうだ。

ハイドンのソナタを田舎っぽく弾くのは問題があるだろうか、という質問を後日頂いた。

何を言ったか本人はとうに忘れていたのだが、これは普段も時折口にする言い回しだから、何を意図して言ったのかははっきりしている。

僕が言ったのはその時弾かれた音が美しくなかったということである。

質問した方は恐らくハイドンの曲の素朴さについての感想だったので、僕の言い方がそれこそ「独りよがり」なのである。普段のレッスンでは補足説明をしているのが、つい端折ってしまった。この点に関してはそれ以上の説明は不要だろう。

だがせっかくの機会だからもう少し先まで書いてみよう。


ハイドンの素朴さを表現するとして、なぜそのために美しい音でなければならないのだろうか。素朴さを表現するには素朴な音の方が相応しいのではないか?

これこそ素朴な疑問である。

表現にはリアリティーが不可欠である。その通りだが、これは一方でし大変面倒なテーマなのだ。

リゴレットはマントーヴァ公爵を恨み殺意を抱く。このような場面でさえ、歌手はベルカントから逸脱することはない。

現実にこのような状況にあれば、リゴレットは(リゴレットに限るまいが)歯噛みするような、圧し殺した声を発するだろう。映画であればそれこそが求められよう。映画のリアリティーである。

音楽にあってはベルカントから逸脱した声ではむしろリアリティーを表出できない。面白いことだ。同じリアリティーという言葉を使ってもまったく違うものだと言わなければならない。

ハイドンの曲の素朴な面を出そうと欲した場合でも事情は同じだ。

念のために繰り返せば、僕が無用心に言った「田舎臭さ」は、その音は充分に美しくなく、音楽としてリアリティーに欠けているということである。

ここで触れたことは次回講座でも触れたいと思うが、なに分即興的になりがちな講座故、言い忘れるかもしれず、また本ブログを読む人がみな講座に参加する訳ではないので投稿しておく。

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