季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

相対性理論

2014年09月17日 | 音楽
某音大ではあらゆる時代、国の作曲家をまんべんなく弾くことが推奨されるという。ドイツ音楽一辺倒はまずい、なぜか?文化というものは相対的なものであるから。ドイツだけが音楽的に秀でているわけではないから。

こうしたご高説を聞かされた若い人たちは何とはなしにそれはそうかも、と相成るのかもしれないね。ウーム、そう言えばそうだ、日本文化だってヨーロッパ文化が入ってくる以前はまったく独自で高度だったのだし。ま、そんな感じ。

しかしこのような理屈の裏側には度し難い空虚な傲慢さが潜んでいる。主張している本人だけが気づくこともなく得意になっている。

全て文化は相対的である。成る程その通りだ。しかしまた、あらゆる文化はそれ自体では絶対的に生きている。

チベット文化は僕が想像もできないものだろう。チベット人はその中で必死にあるいは普通に生きている。

僕は僕で毎日を必死にあるいは普通に生きている。誰が僕にチベット文化に関心を持つべきだと強要できようか。同様にチベット人に僕に関心を持てと強要することも出来やしない。

チベット文化に魅せられた人がそれについて語る。そしてその言葉に(勿論写真や映像だって構わないさ)触発されて関心を寄せる人がまた現れる。それが健全な広がりだ。

関心を持つべきだと頭に命じるなどの愚行を犯してはいけないね。小学校の運動会の万国旗じゃないんだよ。(ところで運動会の万国旗なんて今でもあるのかな?書いてからふと思いついた。もしもそんな光景はとっくに無いよという若い人がいたら、昔はそれが定番だったのかと笑って結構)

さて、その音大の教えをもう少し詳しく言おうか。

全ての作曲家は同列に扱うべきだ。才能の有無は別だが。これがその主張の根幹である。

その意見を支えているものが文化の相対性だというならば、少し拡大して考えてみれば良い。

君はなぜクラシックだけに関心を寄せるのだ?

きっと私はクラシックだけが好きなわけではないです、ポップスも好きです、と答える人が多いだろう。

でも音楽には演歌、ラップ、あらゆる民謡、浪曲等々いっぱいあるのだね。それら全部に同じ態度で接することなぞ、本当にできるだろうか?

さらに、ピアノだけが楽器ではない、あらゆる楽器に等しく関心を持つべきだとなぜ言わない?

そしてさらに。音楽だけが表現ではないはずだ。美術、文学もあるではないか。なぜ君は音楽だけにこだわるのだ?

そもそもなぜ君は豆腐屋にならない?銀行員にならない?量販店の店員にならない?人の営みはすべて等価だろう?

どうです、実に虚しいでしょう。

客観とか相対的とか、何となく偉そうに響く言葉を濫用すると、自分の中の空虚さをさらけだしているだけさ。

相対性理論で検索してたどり着いた人にはお気の毒様と言わなければ。こじつけるならば、光速に近いスピードで飛ぶロケット内で動く人を外から観察すれば限りなくゆっくり動いているが、中で動く人にとってはごく普通の動きだ、というのが何となく似ているように思えるね。


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