コンクールや試験での審査について、誤解する人も少なくないから触れておきたい。東方見聞録と題した文へのコメントに対しての返事にもなるかもしれない。
まず一番に考えたほうが良いのが、公平な審査というものが芸術においてはどういう意味合いのものか、ということだ。
分かり易く言ってみよう。僕があるコンクールの審査をしたとする。そこには僕の生徒も参加し、彼(彼女)が非常に立派に演奏した。その場合、僕の点数は最高点に近くなろう。僕がかくあるべし、と教えたことが実現されているのだから当然だろう。
この場合、僕の態度は公平さを欠くといえるだろうか。
コンクールの審査員たちからしばしば聞かれるのが「私は××番目の演奏は最低だと思うけれど、客観的に見たら弾けているので点数を与えざるを得なかった」という愚痴である。
こんな場合僕は「客観とあなたは言うが、それはあなたの主観だよ」と答える。その結果、僕は理屈屋としての烙印をしっかり押されてしまう。「あなたは理屈っぽいから嫌だ」というわけである。
上記のような場合、該当する演奏は僕にとって(主観的に)弾けていないことがじつにしばしばある。
客観なんていう言葉は誰でも使う言葉になったけれど、そして言葉である以上、厳格な使用法ばかりを要求されるはずもないのだが、この例のような使い方はしてはならないだろう。
自分の演奏を僕たちは(残念ながら)一生聴くことが出来ない。それでも一種の他者の耳で冷静に判断するもう一人の自分の存在がある。そのもう一人の自分の出来不出来が演奏の成果に大きく影響する。
ミケランジェロがシスティナの天井画を描くとき、何度でも脚立から降りて下から見上げたという。まあ当たり前なのだが。
それを今日普通に使われる意味で客観的な目で見ようとしたのだ、と理解してはならない。
彼はただ、距離感をもって自分の絵を把握しようとしたに過ぎない。もう少し詳しく言えば、距離感の中で主観的に見ようとした。
なぜこんなに面倒な言い方になるのか。理由は簡単である。客観というのは本来科学の世界の言葉だと理解しておいたほうが良いからだ。それが日常生活において市民権を持っているわけだが、この言葉は大変豪そうに聞こえるでしょう。なぜかといえば、客観世界を扱う科学がこれほどまでに生活の中に入り込んで支配しているからだろう。みんなそれにやられちまうんだな。豪そうな言葉ってつい使いたくなるものね。
僕たちが怒りに駆られる。そのときに「客観的になろう」と心が命じる。この場合、第三者的に見よう、ということである。
僕が時々床屋に行く。自分が見てもむさくるしい、他人から見たらなおむさくるしいだろう、と判断したときに行く。これを客観的にみてむさくるしいと言ったらおかしいでしょう?
そこで先ほどの審査員の言葉に戻ってみれば、私はこの演奏が大変まずいと思うのだが、他の人が聴いたら良いと言いそうだから、点数をあげないわけにはいかない。こうなってしまう。
どうですか、おかしいでしょう。しかし残念ながらそういうことが実に多い。
僕の生徒の一人が大学でついていた先生は大きなコンクールの審査員だったそうだ。口癖は、コンクールの審査でもっとも難しいのは、他の審査員がいったい何点をつけるかを予想し、それとあまり違わない点数をつけていくことだ、というものだったらしい。
こんなに「無邪気に」自慢してしまう人も少ないが、心の片隅では密かに同じことを感じている人も多いだろう。
公平という意味を芸術等で取り違えると、こうした問題がたちどころに起る。芸術においてもしも公平ということがあるのならば、私心を交えずに純粋に主観的に接する以外ない。
まず一番に考えたほうが良いのが、公平な審査というものが芸術においてはどういう意味合いのものか、ということだ。
分かり易く言ってみよう。僕があるコンクールの審査をしたとする。そこには僕の生徒も参加し、彼(彼女)が非常に立派に演奏した。その場合、僕の点数は最高点に近くなろう。僕がかくあるべし、と教えたことが実現されているのだから当然だろう。
この場合、僕の態度は公平さを欠くといえるだろうか。
コンクールの審査員たちからしばしば聞かれるのが「私は××番目の演奏は最低だと思うけれど、客観的に見たら弾けているので点数を与えざるを得なかった」という愚痴である。
こんな場合僕は「客観とあなたは言うが、それはあなたの主観だよ」と答える。その結果、僕は理屈屋としての烙印をしっかり押されてしまう。「あなたは理屈っぽいから嫌だ」というわけである。
上記のような場合、該当する演奏は僕にとって(主観的に)弾けていないことがじつにしばしばある。
客観なんていう言葉は誰でも使う言葉になったけれど、そして言葉である以上、厳格な使用法ばかりを要求されるはずもないのだが、この例のような使い方はしてはならないだろう。
自分の演奏を僕たちは(残念ながら)一生聴くことが出来ない。それでも一種の他者の耳で冷静に判断するもう一人の自分の存在がある。そのもう一人の自分の出来不出来が演奏の成果に大きく影響する。
ミケランジェロがシスティナの天井画を描くとき、何度でも脚立から降りて下から見上げたという。まあ当たり前なのだが。
それを今日普通に使われる意味で客観的な目で見ようとしたのだ、と理解してはならない。
彼はただ、距離感をもって自分の絵を把握しようとしたに過ぎない。もう少し詳しく言えば、距離感の中で主観的に見ようとした。
なぜこんなに面倒な言い方になるのか。理由は簡単である。客観というのは本来科学の世界の言葉だと理解しておいたほうが良いからだ。それが日常生活において市民権を持っているわけだが、この言葉は大変豪そうに聞こえるでしょう。なぜかといえば、客観世界を扱う科学がこれほどまでに生活の中に入り込んで支配しているからだろう。みんなそれにやられちまうんだな。豪そうな言葉ってつい使いたくなるものね。
僕たちが怒りに駆られる。そのときに「客観的になろう」と心が命じる。この場合、第三者的に見よう、ということである。
僕が時々床屋に行く。自分が見てもむさくるしい、他人から見たらなおむさくるしいだろう、と判断したときに行く。これを客観的にみてむさくるしいと言ったらおかしいでしょう?
そこで先ほどの審査員の言葉に戻ってみれば、私はこの演奏が大変まずいと思うのだが、他の人が聴いたら良いと言いそうだから、点数をあげないわけにはいかない。こうなってしまう。
どうですか、おかしいでしょう。しかし残念ながらそういうことが実に多い。
僕の生徒の一人が大学でついていた先生は大きなコンクールの審査員だったそうだ。口癖は、コンクールの審査でもっとも難しいのは、他の審査員がいったい何点をつけるかを予想し、それとあまり違わない点数をつけていくことだ、というものだったらしい。
こんなに「無邪気に」自慢してしまう人も少ないが、心の片隅では密かに同じことを感じている人も多いだろう。
公平という意味を芸術等で取り違えると、こうした問題がたちどころに起る。芸術においてもしも公平ということがあるのならば、私心を交えずに純粋に主観的に接する以外ない。
今の若者みたいに、自分だけ「浮く」ことを恐れ、「空気を読む」ことに懸命になっているのでしょうかね。情けないほど滑稽だ。異を立てることを嫌い、全員足並みをそろえないと何事もできない、われわれの国民性が、こんな所にも観察されるのか。日本にはショパン・コンクールでポゴレリチを評価したアルゲリッチみたいな審査員は、重松君以外いないのかな。
「自分の演奏を僕たちは(残念ながら)一生聴くことが出来ない」とのことですが、レコーディングすることもあるでしょう。それは演奏と同時でない、というなら、多重録音でもするときのように、マイクに音を拾わせて、それをヘッドホンを通して聴くこともできる…。
いや、しかし、音の電気信号への変換ということは問わずに措くとしても、マイクの位置により音は違うし、ヘッドホンの音は客席で聴くようには鳴らないか。重松君の言う「もう一人の自分」は、客席にいると想像されるのだから。ピアニストは鍵盤に指を走らせて現に音を出しながら、かなたの客席で聞こえるはずの音を想像する、と言おうか。
でもその「もう一人の自分」は演奏会に来るようなひとりの聴き手を想像しているのでは絶対ないと思う。演奏家のもつ自己意識というか自己演奏像は、聴衆の誰も、批評家ですら想像できぬはずだから。
自分の声や音を距離感のうちに聴くことは残念ながらない。
もうひとりの自分といったって別段難しいことを言うのではない。
今の音が(声が)演奏として成り立つかだけを経験で知ることです。あとは自分の音がフィッシャー風なのかコルトー風なのかは与り知らぬことなのです。