季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

携帯電話騒動

2009年01月05日 | その他
このところ各地で携帯電話を学校に持ち込むことを禁止する規則ができて話題になっている。理由は大別してふたつ。

授業中に携帯で遊んでいる生徒が多く困るというのと、危険なサイトに接続する例が後を絶たないということだ。

僕は基本的にいろいろな規制には反対だ。家庭ごとに、個人ごとに決めていれば良いと考える。

授業に集中しないというが、集中しない子供は何を規制したところで集中しないさ。僕が小学校の低学年の頃授業参観があった。後ろには父兄の目がたくさんあることなぞ考えもしない餓鬼だった僕は机の下で本を読んでいて先生に注意された。

仕方なく手を机の上に出した僕がしたことは、本を床に置いて、足でページを繰るというアクロバットであった。この新たな手口は先生の目を盗むのには成功したが、後ろに控えていた大人たちからは丸見えだった。僕はたしか後ろから2番目あたりに座っていたはずだ。あとでこっぴどく叱られたのは言うまでもない。以来僕は授業参観のときに足で本をめくるのはやめた。他のとき?知らんよ。

この場合、学校に本を持ってくることを禁止するだろうか?素朴な質問だ。僕はどんなときでも素朴な疑問しか持たない。この場合でだけ結論を出すのなら、携帯電話は感心しない機器だ、というイメージが大きな役割を果たしている。

もうひとつ、魅力のある授業は(例外もあるだろうが)熱心に聞く生徒も多いというのも真実だ。携帯電話のせいにするのは僕の方法ではないな。

さて、禁止のもうひとつの理由はもう少し厄介だ。しかし、ここでも基本は同じように考える。

出会い系サイトというものは使ったことがないけれど、見当はつく。つくから怖い。サイトばかりではない。

これも僕が自身で体験したことで、高校生の頃だったが、家にチンピラ数人が押しかけてきて非常に怖い思いをした。ちょっと注意をしたところ、仲間を引き連れて家まで来たのだ。どこまで本当か分からないが、横浜に当時あった組の傘下だとわめいていたのを覚えている。

以来、外で他人に注意することは控えている。時折メディア上で、最近は他人の悪い行動を見てみぬふりをする人が多いとか言うでしょう。軽々にそんなことを言うものではないよ。

出会い系サイトの危うさ、暴力団の怖さ、その他諸々のことは、形ばかりでなく教えなければいけない。携帯を禁止したところで、つい先ごろまではダイヤルQ2というのが盛んに批判されていたではないか。そしてこれはまさかそんな目的で設置されたサービスではなかったはずである。禁止されたって繁華街に出て行けばもう危険さ。深夜にあちこちに中学生くらいと思しき子供たちがうろうろしているのを見ると、親は注意をしないのかしらん。と思う。

日本人が海外に出るとなぜきわめてガードが甘くなるのか。それは犯罪件数、また重大犯罪にしても、海外がはるかに多いということを知らされていないこと、日本国内で、人間社会の危険な一面を本当には見せずに、ふたをする方向にばかりベクトルが向くから、というのも原因のひとつではないか。

僕のイタリア人の生徒のお父さんは、自分の故郷でネックレスを首からかけていたのを(当たり前だけどね。ネックレスで縄跳びをしていたなんて言ったら面白いかもしれないが、ここはリアリズムでいこう)強引に引きちぎられて大怪我をした。海外旅行に行く場合、所謂良い身なりで行くのはすでに危険なのだ。

ただ、日本の犯罪件数がずっと少ないといっても、それを危険ではないと捉えるのは間違いだろう。危ないことは至る所にあることをしっかり教えることだ。

喧嘩はいけない、という建前から、子供社会から喧嘩を取り上げる。公園で遊ぶ幼児からすでにそうだ。喧嘩をさせろ、と思う。たたかれたら痛いことを知れ。たたいてばかりだったら仲間はずれになることを知れ。そういったものは実地に限る。道徳の教科書などいらない。千円落ちていたらどうしますか?おとなの気に入る答えくらいだれでも分かる。そういった気休め、大人の気休めばかりしていると、うそ臭い言葉だけが並ぶ世の中になる。

禁止論者たちは、仮に生徒が従順に従ったとして、その後をどう考えるのか。無菌状態で大人になれとでも言うのか。

そうではないだろう。怖いという感情も含めて人の情緒を尊重しようとする以外ないだろう。取り上げて当面の「危険」を回避するようなことばかりしないほうがよいと思う。

自分たちが子供の頃はなかった(当たり前だ)様々な機器や様相に戸惑うのはちっとも構わないが、もう少し冷静に対処するべき問題だ。
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1 コメント

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その後は (伊藤治雄)
2009-01-05 09:27:11
>禁止論者たちは、仮に生徒が従順に従ったとして、その後をどう考えるのか。

何も考えていないでしょう。
 だから彼らは無責任。しかも彼らはこの無責任を自覚することすらできまい。ここで言う無責任は、学校という道徳的空間内で理解されている「責任」「無責任」とはレヴェルが異なるのだ。
 無菌室から外におっぽり出された生徒は、本音と建て前の区別を自分で学習しなければならない。それが大人になるということでしょう。
 「本音だ」「建て前だ」と言うのは、つまり我々の社会に嘘があるということだ。そしてこれは、我々大人も子供も、あまり言葉に信を置かない、という嘆かわしい事態にも通じているようだ。
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