季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

古伊万里

2008年02月09日 | 骨董、器


古伊万里というものは雑器であるから、気楽に買える。値段の方からいえばそんなに気楽に買えるものではないけれど。どう言えばよいか。使い易いとでも言うかな。それほど特別な眼が要るわけではないし。

訳知り顔で書いているが、実は買ってくるのは家内である。馴染みの骨董屋がすぐ近所なので、買い物のついでに寄っているらしい。らしい、というのも僕はほとんど毎日自宅にいるのに、レッスン室にこもったまま何時間も過ごし、家内の生活パターンを窺うことができないからである。

僕は大体が不注意に暮らしている男で、生活空間にぴったりした器であれば、それが新しく購入されたものであることに気付かないことがよくある。食事をしながら「気が付かないの」と訊ねられる。よく見ると見たことのない器である。女房が代わっていても気付かぬかもしれぬ。

古伊万里は江戸中期までだ。初期伊万里は完品はほとんどない。そんな能書きはどうでもよい、古伊万里が使い易いというのは、たとえばサン・ルイ社のワイングラスや銀製のナイフ、フォークと実によく合うといったことだと思えばよい。

骨董の用語で感じが来る、というのがある。感じが来るのまではまあ、なんとか来る。その後にものが見えるという。ここまで行くのが難しいのだという。白州正子さんの文章によく出てくるから目にしたことのある人は多いかも知れない。いや、感じが来るのだって充分難しいです。

よく分からぬようで、しかし耳に置き換えると実によく分かる。

ふだん使う飯椀で気に入ったものは家内と息子が取ってしまった。何のことはない、こよみ手という文様の、すっきりした円錐に高台が付いただけのものだが、質素な武家で背筋を伸ばした男とその妻が食っていたのだと思いたい。そんな風情だ。

むぎわら手のお気に入りの椀があるのだが、やや大振りで、ダイエット中の身にはちょいと大きすぎる。そのうちに技術をマスターしたら写真を載せても良いと思っている。

僕もきちんとした椀で食いたいと不平を言ったら、重ね松という文様のふっくらした椀を買ってきた。重松だからと、駄洒落のような買い物である。これも悪いものではない。けれど、金満長者とまではいかないが、羽振りのよい町人が笑いながら食っているようで、僕は好かない。

僕らの前に幾人もの人が使っていたわけで、その人たちを空想するのは実に楽しい。

ところで我が家のウサギは一匹は真っ黒で、この子に赤絵の皿でえさをあげたらさぞ可愛いだろうと思い、適当なのを見つけてもらった。世界広しといえど伊万里の赤絵で食べているウサギは他にいまい。

この皿も何十年も経ったら誰かの手に渡るであろう。その人も僕同様、どんな人が使ったのだろうね、と過去に想いをはせるだろう。まさかウサギとは思うまい。ざまあみろ、だ。


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