季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

良い耳

2008年01月24日 | 音楽
インタビューされるくらいだから、きっと著名な演奏家なのだろう。自分は小さいころから耳が良かった。どんな小さな音も聞き逃さず、みんなから「うさぎちゃん」と呼ばれていた、云々。こんな記事を読んで吹き出したことがある。

でも本人も気付かないことなのだから、人は案外読み飛ばしてしまうかも知れない。現在の音楽を見聞する機会が増えれば増えるだけ、そんな気がしてくる。

音楽家に耳の良さは必要不可欠だが。でもいったい何人の人が良い耳とは何だろうと問いかけただろうか。良い耳とは良い耳のことでしょう、訊くまでもない。第一そんなこと考えても仕方がないではないか。そんな声まで聞こえる気がする。僕の妄想であれば幸いだ。

猫舌とは敏感な舌のことだ、と言っても間違いではない。しかしどこかのシェフが「私の舌は猫舌です、おいしくお召し上がり下さい」と言ったらどうだろう。

まあ、小さな音をも聞き逃さない、というのは忘れよう。たしかに良い耳ではある。こんなことに突っかかるのは横車に等しい。自慢さえしなければ見逃していたことだ。

さて、あらゆる和音を聴き分けるのも当然良い耳だ。リズムやテンポの変化を感じ取るのも。しかし、それらに劣らず大切なのはニュアンスに対する反応であろう。ニュアンスというと強弱をはじめとする音量の増減を指すのが一般であるが、今僕が言うのは(それを含んでも良いけれど)声や音の調子のことである。

恋する者は恋人の声の微細な変化にも気付くであろう。自分の聴き取りたいニュアンスのかすかな徴を受け取ろうとして耳を澄ます。

それを聴き分ける能力、音楽におけるもっとも大切な能力はこのような「質」を聴き分ける能力だろうが、それは傍からは容易に判定できないほど密かに隠されてもいる。とても聴音などで訓練したり、判定したり出来るものではない。

耳を澄まして、もしかしたら鳴っていない響きまで聴こうとする。その努力を耳というのだ。そこには非常な緊張が張りつめるだろう。ぼうとした耳に、もしも実際にはない恋人の声が聞こえたら、それは単なる妄想である。音ならば耳鳴りである。

ある音をどう聴いているか、どこに焦点をあてて聴いているか、それがその人の感受性そのものと言ってもよい。ことばで説明しようとすると大変難しくきこえるのであるが。


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