季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

カール・リヒターを聴いて

2010年04月03日 | 音楽
僕はレコードをたくさん持っている。と言ってもマニアではないからね、普通の人よりたくさん。音楽家の中では多いほうかもしれないな、という程度。音楽家はそんなに次々に他人の演奏を聴かないものだ。いわゆる音楽好きは途轍もなく持っていて、いや録音を所有しているばかりではない、知識が半端じゃないこともしばしばだ。知識の量では今日の音楽家なぞとてもとても敵わない。

レコードはCDに比べて格段に良い音がするのだが、何といっても扱いが面倒だ。暇を見つけてはレコードからCDにダビングしている。

先日必要があってバッハの有名なカンタータ第147番「心と口と行いと命」をダビングした。その演奏がカール・リヒターであった。

リヒターといえば当時バッハの権威、室内オーケストラの分野で揺るぎない名声を博していた人である。

ただ、僕がこの演奏を持っていたのはリヒターに惹かれたのではなく、他に適当なのがなかったせいだ。有名な指揮者は良い声楽家を使える。ましてリヒターはグラモフォンに所属していたから、自由になる声楽家は多かった。

法的な知識はゼロだからどこかで聞きかじっただけだが、所属する録音会社が違うと共演も難しいという。

リヒターは当時のオラトリオを歌える歌手たちの主だった人をほぼ全員使える立場にあった。

カンタータは何といっても独唱が貧弱ではどうしようもない。ギュンター・ラミンという人は東ドイツ時代の(といっても今から5,60年前の)トーマス教会合唱長であるが、ラミン指揮の録音は残念ながら歌手がお粗末なことが多い。東ドイツだけで集めたためかもしれない。(それくらい人材が払底しているのが今日に至るまでの音楽界だ)

このレコードを買ったのは20代だった。その当時から何かしら違和感があった。ハンブルクで聴いたとき、はじめの10分くらいその迫力にびっくりしたが、次第に粗雑な響きであることが聴こえ始めた。今だったら最初の一音で判断できると言いたいほどだが、当時は10分かかったのだ。

レコードをCDに焼く場合、操作は手動なので付ききりでチャプターを入れなければならず、全部を聴くことを強いられる。

そんなわけで久しぶりに聴くリヒターだったが、当時理由は分からなかったイライラする感じの理由が分かった。

この人の演奏ではリズムが落ち着かないのだ。それはテンポに音を当てはめていこうとするからだと今回はっきりと分かった。

有名なコラールの柔らかいメロディーも窮屈で何ひとつ語っていない。1拍に3つの音がある、ただそれだけ。トスカニーニがバッハを振ったらこんな風になるだろうか。

ちょっと興味が湧いたから、80番のカンタータ「我らが城は堅き砦」をリヒターとミュンヒンガーで所有していたから聴き比べてみた。

リヒターのテンポはミュンヒンガーに比べてずっと速い。評論家はそんなことばかり言うけれど、僕はそういうことはまったく気にしない。大切なことは、その速いテンポがリズムを感じていないせいでつんのめって聴こえることだ。演奏家がほかの演奏家と違う表情を与えるのは当然だが、音を聴いていないリズムやメロディーは空疎である。

いくらフレーズや構成を厳しくとっても、そもそも構成するように聴こえるのは音であるから、音が生きていなければないに等しいのである。

その点ミュンヒンガーのはずっしりした手応えがある。「だから」柔かい。残念なことにソプラノがひどい。ガブリエレ・フォンタナといって、ハンブルクのオペラで何度も聴いた人。

契約の関係だろうが、晩年のミュンヒンガーは良い歌手と共演する機会が減った。つまらない時代である。

聴き比べなんてしてしまい実りがある時間ではなかったけれど、長いこと不満を抱えていた理由がはっきりして気分は良い。


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