季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

井口基成さん

2008年07月16日 | 音楽
井口基成さんといっても、若い人にはピンと来ないかもしれない。桐朋学園を創設した人だとか、春秋社版の校訂をした人といえば、ああそういえばという人もいるのかもしれない。

朝比奈隆さんについて書きながら、僕が音楽家に対して用いる基準は、ただその人が音楽を好きかどうかだ、と言った。そのときにふと井口さんのことを思い出したから書き留めておく。

僕が音楽家になろうと思ったのは、随分遅かった。はっきりしていたのは、会社員になりたくない、これだけであった。高3の夏、それでも人並みに桐朋学園の夏期講習にひょこひょこ出かけたのは、当時の僕の生活ぶりからすると、想像がつかない。

当時は井口基成さんが中心にいて、他の先生は随行員のような印象を受けた。違っていたら謝るけれどね、高3のガキの印象ですから。

講習会にはオーディション参加が含まれて、僕は曲目提出を「ラ・カンパネラ」にしていた。ところが当の僕といえば、そのころからの10年あまりが一生のうちで一番弾けないころで、とてもではないがまともに弾けず、とうに白旗を揚げて曲目を変更していた。自分の中で勝手にね。

オーディション当日、井口基成さんがでんと中央に腰を下ろしている会場で、僕は曲目を「熱情ソナタ」に変更する旨を告げた。

「どうした、ラ・カンパネラは無理だったか」と井口さんが揶揄するように訊ねた。「ええ、無理でした」と応えると実に愉快そうに笑った。

僕がベートーヴェンを弾き終わったとき、井口さんは机をドンと叩いて「よーしっ」と大声をあげた。僕は何のことやらあまり分からずお辞儀して退室した。悪い印象を持たれなかったのだけは分かった。

最終日だったか、個人面談があった。ここでも井口さんだけが質問をしたように思う。「君はどこを受験するんだ?」と訊ねられた僕は非常識にも「はあ、芸大でも受けようかと思っています」と答えた。井口さんはひっくり返るほど大笑いした後「よーし、頑張れ。落ちたら俺の処へ来い、いつでも迎えてやる」と大声で言った。今にして思えば、桐朋に行って芸大を受験するつもりだとストレートに言うのは、まあ礼を失するだろうか。

世間知らずの僕はなんとも思わなかったが、後に、音楽家の世界がバカバカしい因習に満ちていることを知るにつれ、井口さんのその時の態度を好ましく思い返すようになった。

大学を卒業して少し経ったころ、僕と直接関係のなかった某教授から電話があった。ある国立(こくりつ)大学に勤めないかという話だった。(こくりつ、と振り仮名したのは、某くにたち音大に勤める友人が、間違えられるといやだから必ず振り仮名してくれ、と泣いて頼むから約束を守るのである)

僕は当時はぼんやりとでしかなかったが、全部やり直すしかないと感じていたし、それにはドイツあたりに行ってみようかと考えていたので、それを話して、お話はあり難いけれども、他の人に回してくださいと答えた。

数日後友人に出会ったら「お前、非常識だと教官室で話題になっているらしいぞ」と笑う。よくよく訊いてみれば、次のような次第であった。

こういう有難いお話を戴いたときには「数日考えさせていただきます」と即答を保留して、後日「よく考えたのですが・・・」と断るのだそうだ。それが礼儀というものだそうだ。

僕には未だに分からない感覚だ。僕は自分の返事がはっきりしている以上、早く返事をしたほうが相手に気をもませなくてすんで、それが気遣いだと思うのだ。でも、その人たちはそう考えないわけだから、それは仕方ないね。それを否定する気持ちは僕にはまったくない。礼儀もさまざまだとその時に学んだ。教官室の人たちは、さまざまな礼儀のあらわし方があることを知らなかったのだね。もうひとつ学んだことがある。僕の友人の学生にそのことをペラペラ喋るのは明らかに礼を失するということ。

井口さんの思い出話から、つい他のことまで思い出した。こうして、若い人へのまったく違った対し方を思うと、僕は井口さんが、音楽を好きな若い人に単純に好感を持ってくれたのだと思わざるを得ない。間違いないと思っている。

某国立(くにたち)の友人も、高校生のころ井口さんの公開レッスンを受けたという。そのとき「君の演奏は宗教的なものがあるなあ」とボソッと言ったそうだ。井口基成という音楽界のドンしか見ない人には意外な言葉だろう。

井口さんのそういった言葉を僕は素直に受け止める。その他の井口さんへのもろもろの批判は、知らないのだから放っておく。




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