季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

苦手

2008年01月14日 | 音楽
ずっと以前のこと。ドイツに住んでいたころだが。

ヘルムート・リリングがテレビ出演してバッハのオラトリオ作品の解説をしていた。バッハの宗教性の深さを語った彼は、おもむろに楽譜をカメラに対し水平に倒し言ったものだ。「ご覧下さい、こうやって見ると楽譜が十字架に見えるのです」

こういう真面目な人は批判もしにくいし、からかうこともためらうし、始末に負えない。苦手である。

リリングが若いころの演奏は自然で、カンタータの録音が少ない時代でもありよく聴いたものだ。でも次第に窮屈に感じるようになっていった。その理由が分かったように思った。

こういう解説を聞くと僕は反射的に「十字架に見える楽譜なら僕だって書くさ」と思ってしまう。多分リリングの言うことは正しい。バッハはそこが十字架に見えることを意識しただろう。でもそれは謂わば子供らしい思いつきなのであって、こう正面切って考察されると反論する気力も失せる。

仮にそこが十字架に見えなければ宗教性は無くなるとでも言うのだろうか?

バッハの最後の作品はフーガの技法である。未完に終わっているが、その最後部で彼は自分の名前BACHを音に当てはめ埋め込んでいる。ここにバッハの思いを感じるのはよい。大切なことだといってもよい。それでもこのシ、ラ、ド、シが無くてもフーガの技法という曲がバッハという巨人の集大成であることに異存はないだろう。


昨年ダヴィンチの「受胎告知」が来たとき、いろいろな場所で背景の青い山がキリストの象徴だといった類の解説があふれた。僕はそういう難しいことはご免こうむりたい。あんな厳しい、有無を言わさぬ顔で受胎を告知する天使ガブリエルも、それを受け容れるマリアの尊厳ある表情も他に見たことがない。それだけで充分だ。及びがたい精神の力を感じる。その上で、僕はあまり好きになれないのである。受胎告知で文句なく好きなのはフラ・アンジェリコだ。

作品の研究とは、簡単に言えば作品に魅力を感じるからするのだろう。魅力もない作品を研究する暇人はいまい。では後から来る人にもその魅力をただ味あわせてくださいよ。解説がなければ味わえないようなものは魅力とは言い難い。研究したから味わえるのではない。味わったから研究したくなったのだ。ところが人間の性かな、研究すればするほど味わうことを放棄する。それどころか味わう人を低く見る傾向さえ出てくる。

カンタータは礼拝の時に演奏された。それだけ知っておけば音楽がすべてを語る。演奏とはそんなものであるべきだろう。これらの曲は礼拝用に作られたのであるから、教会で演奏されるべきだという意見に対しシュヴァイツァーは「バッハが演奏されるところが教会になる」と言った。

僕が求める簡明さとはそういったことだ。


リリングに限ったことではない。余計な解説はいらない。研究もいらない、とは言うまい。ただ、素直に感動しつつ研究するのは大変難しいよ、とだけは言っておきたい。