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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

エコなのか

2018年05月12日 | その他
仕事部屋のライトを全部LEDにしたのは二年ほど前だ。なんと言っても電気代がおよそ1/7なのだから8個の合計はかなりの節約になる筈だった。

しかも電球は40000時間保つのだという。何だ、僕にあと40000時間働けということかい!電球より先にこちらが切れてしまうわい。

ところが案に相違した。つい先日、その内の一個が点灯しなくなった。

一瞬僕は既に40000時間も働いたのかと自らを褒め称えたのだがそれはどうも間違いだったようだった。

約束を破った電球を恨めしげに見上げたが見上げたところで何も変わらず、仕方なしに交換した。

こういうことに詳しい人に聞くところによれば、フィラメントの電球と違いLEDは基盤を使用した製品なので熱に弱いのだという。

僕は今、世の中で盛んに言われているエコは本当にエコなのかしらんと猜疑心いっぱいになっている。それは二つ目が壊れるか否かにかかっている。頑張れLED電球!


とんでも

2018年04月09日 | その他
読売新聞の医療記事による。

ある中1の女の子がクラブ活動の一環で友達と電車で出かけることになった。改札口で待ち合わせるのだが、皆んなはまず近くのコンビニで待ち合わせたのちに改札口に集合すると言う。

件の女の子は結局は改札口に行くのだから、と自分はコンビニに行かないで直接改札口に行くことにした。結果、その女の子は変わった子だと見なされて次第に仲間外れになってしまったのだという。

この出来事を紹介して、精神科医が(松本秀夫氏)アドヴァイスするのだが、これは典型的な発達障害の例であるというのだ。

馬鹿は休み休みにしてくれと僕は思う。

発達障害の定義などは知らない。ただ、もしも上記の例でおかしい点を挙げなければならないならば、わざわざコンビニに集まって肩寄せ合って行動する生徒たちについてだろう。また、そこに来ない子を変わり者扱いする生徒たちについてだろう。

そうした子達を病的どと見なすのはこれまた有り得ないと思う。どこにでもある日本的な光景だ。

しかし的外れなアドヴァイスをしてしまう教育者や精神科医が多そうな我が国の昨今はほとんど病気だと僕は思ってしまう。

故郷

2018年03月01日 | その他
先達て安売りの炭酸水を買った。

炭酸水を飲む習慣がある僕にとっては有難いことに他と比べて格段に安く大変に機嫌よく帰宅したのである。

さて採水地を知ろうと小さく書いてあるのを悪い目を細くして見て驚いた。なんと僕の生まれ育った土地の水ではないか。

僕は母方の祖父母の家で育ったのだが、父親の実家はとなり村で、裏山を登った辺りに滝がある。鯉の洗いを出す茶店が一軒あるばかりで観光地として売り出すには変哲もなさすぎる。ただ水だけは綺麗なのである。

それにしても炭酸水の採水地になろうとは夢にも思わなかった。

郷里にはもう縁者も少なく、長いこと訪れてもいないのだ。にもかかわらず本籍地を移すことに中々思い切れない。

これは一体どうした心の動きであろうか。掛け値なく楽しかった記憶はなるほど幼少時代にしか無いのだが、それが変哲もない村を懐かしく思う理由なのだろうか。

ともあれ今日も炭酸水を飲む。そしてその度に遥かになった風景を思い出す。

学校での動物飼育

2018年02月13日 | その他
数日前に学校でのウサギの飼育について記事があった。この種の記事は数年に一度は繰り返される。

内容はと言えば毎度のことながら、繁殖しすぎる、不潔な環境、ウサギの受けるストレスなどの報告だ。他の話題で記事にするのは難しいのだろうか。

記事によると80匹にまで増えた学校もあるという。指導する立場の教員の知識が貧弱なのも問題で、彼らに対しての指導も必要なのだと指摘する。

ひとつ学校における動物飼育、を検索してみよう。
ウサギを家庭で飼っている人の憤慨、自身が子供だった時の学校ウサギの飼育状況への反省、獣医によるアドヴァイスなどが次から次へと出てくる。

共通しているのはこのように劣悪な環境下では飼育するべきではないという声なのである。

それはそれで良いと思う。ただ、ここでひとつ欠けていると僕が思うのは、学校で動物飼育をすること自体への疑念だろう。

既に本ブログで何度も書いたのだが、動物を飼育することにより子供たちが優しくなるという安直な発想は捨てるべきなのである。

子供たちは教師の思惑とは関係なく生活している。むしろ劣悪な環境に対して無感覚、無策な大人たちを見ているのだ。知らず識らずにそれを見て育つのだ。そう思う大人はいったい何人いるだろうか。

幾人かの子供は心ない飼育に憤慨するだろう。同時に教師の無関心をそのまま模倣する生徒もいるだろう。

そして優しい子を育てるというスローガンだけが居残る。世の中にスローガンほど無意味なものはあるまい。ここではむやみに立派な目標ですら可能になる。

実行することより少しでも立派な美しい言葉を掲げて唱え続ける。これがスローガンの持つ性質である。

愛情のある人間、然り。
強い人間、然り。
和を重んじる人間、然り。
団結心、責任感、平和、ぺんぺん草、然り然り然り。

誰も異を唱えることは出来まい。

飼育小屋をなくそう。これなら明日にでも実行に移せる。お題目ばかりの教育は子供にとって有害だ。そうした声は優しい子を育てるという魅力たっぷりのスローガンの前に影を潜める。





人工知能

2018年01月22日 | その他
少し前のニュースだから知った人も多いかもしれない。

18歳だったか19歳の女の子にセットされ、ネット上での会話を通して人とのコミュニケートが取れるようになる人工知能が発表された。

そうしたニュースに接するといたずらに興奮する人と一抹の不安を感じる人がいるものだ。

そして結果であるが、その人工知能は瞬く間にヘイトスピーチを覚えてしまったという。

慌てた開発者は取り敢えず電源をオフにした上で目下プログラミングを改良しているそうである。

思わず大笑いしてしまった。

あまりに予想された通りの結末で、電源を切ると機能しないことに安堵するだろうか?

それとも人工知能を通しても人間の浅ましい面が露わになったと不安になっただろうか。

電源を切られてもそれを無効にする知能が備わった暁にはどうするのか、そんなことも含めてすべては予想不能であろう。

人間とのコミュニケーションを通じて発達する知能など、なるほど可能なのかもしれないが、諦めた方が良さそうである。

仮にお堅い人とだけ会話を許可したとしても、やたらに融通のきかないものになるかも知れない。あなたの敬語は間違いです、従うことを拒否します、なんてなりそうで僕はそんな空想を楽しんでしまう。

直訳

2018年01月06日 | その他
英語が(外国語が)堪能だったら翻訳は出来る。

これは正しいだろうか。

ひとつ実例を。探さなくとも偶然見ていたボクシングの記事で充分だ。

日本の選手が圧倒的な強さで勝ったことを伝えるフランスのメディアだそうだ。
曰く、格の違いはあまりに巨大だった。

もうひとつ別の記事、同じ日本人選手の活躍を期待したイギリスの記事。
曰く、ボクシングファンの食欲を大いに刺激したのだ。

ここまでおかしいと誰でも分かるだろう。最初の例は、あまりにも大きかった、あるいは単に大き過ぎたでも良い。

二番目の例にしても、ヨーロッパ言語では直訳すれば確かに食欲を刺激するという言い回しがある。

しかしこのような表現は日本語ではまったく使われないのだから思わず笑ってしまう人もいるだろう。

ニュースになるためには速さを求められる、推敲する暇なぞ無いと言うかもしれないが、そんな高級なことではあるまい。単なる日本語の拙さだ。

このように翻訳においてはむしろ日本語の能力が問われるわけである。

ところで訳者は普段からこのような珍妙な日本語を使っているのだろうか?はなはだ疑問である。

誤訳ではないか、とかの様々な批評から身を遠ざけたいという気持が大きいと文芸作品はいざ知らず、無難なところで簡便に扱うのではあるまいか。

その手の自動化された訳業を繰り返すうちに日本語とはかけ離れた、原語で書かれた文章や単語を無反省に訳すことになったのではないか。

雑誌などでよく見かける、私は私はと主語を頻発させる、これまた日本語にはそぐわぬ文章などを見るにつけ、そのような憶測をせざるを得ないのである。

発音

2017年12月29日 | その他
英語の(外国語の)発音について。

まずそもそも、「良い発音の英語」という点では、永遠にネイティブスピーカーに勝つ事はできない。「良い発音」にこだわる限り、永遠にコンプレックスを抱え、勝てない土俵で勝負をすることになる。

次に、世界で話されている英語の大半は「よくない(訛りのある)発音の英語」という事実。「訛りのある英語」が世界では「当たり前」であることを忘れてはいけない。

最後に、英語の発音が良いと、「(日本人にとっての)外国語を話している」という点が相手に忘れられてしまい、特にビジネス上、リスクが上がる。例えば、素晴らしい発音の英語で、何か間違えたコミュニケーションをした場合、それは「言葉ができない(外国語の)せい」と考えてもらうことができない。


以上は以前何処かで読んでコピーしておいたものである。至極ごもっともである。

僕は自転車レースをよく見る。世界各国から集まっている選手たちも英語でインタビューされるのが多い。

そこで話される英語のブロークン度は僕たちを安心させるに足りる。

コピーしておいた文章の後段、ビジネス上のリスクが上がる、これは自転車レースでは無いだろうが。

発音発音とこだわるのは外国語コンプレックスの為せる業だと知っておいた方が良い。



東ドイツ 2

2017年12月17日 | その他
東ドイツに旅した時は非常に緊張した。ワイマールやアイゼナハのホテルに泊まる際にはパスポートを預けなければならなかった。

僕は一度夜行列車で国境を越える時パスポートを盗まれたことがあり、外国でパスポートを手放すことの不安定さには敏感になっていた。それが理由も分からずに(分かるはずがない。それが規則だというからには従うしかないのだ)見ず知らずの人に預ける。これには緊張した。

旅の楽しみの1つは夜の町を散策することだろう。ドイツでは特にそれを感じた。

しかし東ドイツの旅行中は気味が悪くてとてもそんな気持ちになれなかった。ホテルへの道は当然メインストリートなのだが、人の気配もない。

薄暗い街灯に照らされて人影がある。ところがそれは彫像のように動かない。近づくにつれそれは軍服姿の男だと知る。そう、夜の街にいるのは警官と軍服姿の男だけなのである。

そのようなところでパスポート無しで散策するような無謀な行動は子供の時からやんちゃで鳴らした僕と雖もできかねた。

以前にも書いたが当時は東西ドイツで通貨レートが(表向きは一対一だが)大きく違った。そこで西ドイツマルクを欲しい人は密かに交換を持ち掛けてきた。バッハの生家で受付のおばさんから頼まれたこともある。

これがまた油断は禁物。おとり捜査だったりしたのである。知人にも理由はよく知らないが捕まった人がいる。本人はドイツ語が殆ど分からぬままウッカリ交換したらしいが警察で随分絞られたそうだ。

マイセンでエルベ川の河原に駐車して休憩を取った時のこと。何処から現れたか子供達7、8人がやって来た。

口々にスーパーカーだ!と僕のボロ車を覗き込む。ありふれたハッチバックですよ。日本では外車になるが。

なるほど東ドイツの当時ではスーパーカーだと言われても納得ではあった。当時の東ドイツにはトラバントというオモチャのような車があるだけで、それを手に入れるのに誕生と同時に申請しないとならぬ程待つらしかった。

やって来た子供達の目についたのは車中にあるビニール袋だった。ワォといった感じで見るのだ。これもまた無理がない。1枚数十円といった値で売っているのに、僕らは無造作にゴミ入れ用に何枚も放り投げていたのだから。

1人1枚ずつあげた時には心底から喜んでくれた。記念写真を撮ってしばし歓談したが、年長者が「もう行こう、警察に叱られるかもしれない!」と言い全員が風のように走り去ったのが忘れられない。

続きを書くかもしれないが。

組体操の事故

2017年11月04日 | その他
ニュースによれば中学の体育祭での組体操がもとで死亡事故があったという。

昨年のことで、また因果関係は詳しく報じられてはいないのだが。

いずれにしてもそのような論議を呼んでしまうようなことを教育の名の下で行う必要があるだろうか?

この種のニュースには何段までに制限すべし、あるいは禁止すべしという意見と危険危険と何でも禁止するのはひ弱い人間を作るばかりだという意見が拮抗する。

議論することだろうか?あらゆる意見はなにがしかの正論を含む。要は教育の美名のもと、命を賭して取り組むべきものか?ということに過ぎないではないか。




台風一過

2017年10月24日 | その他
台風一過の青空が広がる天気だった。最近では台風の通りすぎた後にこのような青空はついぞ見なかったように思う。気候はいつのまにか随分変わってしまったようだ。

しかしふと思う。子供の頃の台風一過の青空と記憶しているのは本当にそうだったのだろうか?

台風の中、家に閉じ込められ、過ぎ去った後に外へ飛び出して行った開放感が台風一過という語と結びついただけなのかもしれない。

確証はない。確かめる気もない。そんなことをふと思いついて重ねた年月を感じるだけなのである。