パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

左手が不自由に

2012-01-25 22:31:48 | Weblog
 昨日、一昨日降った雪が凍った路面で足を滑らせ、かばってついた左手がやがて痛みだし、使えなくなってしまった。

 当たり前だが、不便。

 包丁を使うのだって、左手で材料を押さえて切るわけだが、それが力が入らないので、今朝は朝食を作るのを止め、お昼も、新宿の街頭の弁当屋で弁当を購入したのだが、一度、同じ弁当屋で買った肉じゃが弁当300円なりが、安くて大変に美味しかったので、それを買おうと思ったら、なかった。

 たぶん、味が大変に淡白だったので不評でメニューから外したのではないかと思うのだが、あったのは白身魚のフライとコロッケと、あとは付け合わせ。

 店で買う「揚げ物」は、ここ一年近く買っていない。

 食生活を変えて以来、味があわなくなってしまったのだ。

 先日も、スーパーで分厚い衣で覆われた「わかさぎのフライ」を購入したが、「衣」を食べている感じで、自分でわけもわからず、作った方が全然うまかった。

 自分の定番メニューは、4、5種類の野菜と鶏肉を炒め、パンではさんで食べる。

 それだけ。

 朝は、できるだけ6枚切りの食パン1枚で済ませるようにしているが、どうしても2枚になってしまうので、8枚切りとミックス、腹が納まらないときは8枚切りを1枚追加する。

 残った野菜炒めは食パン2枚で挟んでサンドウィッチにするが、チーズと目玉焼きを追加して挟む。

 味付けは塩胡椒に、昆布づけにしたお酢をたらすとうまい。

 問題は、野菜炒めの「油」の量だと思う。

 「油」の量が適量、というか少ないと、食後に牛乳を飲むとき、低カロリーの牛乳が非常においしい。

 逆に油が多いと、低カロリーの牛乳はまるで水みたい。

 「油」には気をつけよ、とよく言うが、料理に使った油が少なければ少ないほど、てきめんにおいしく感じるので、「油」の危険性はひしひしと実感する。

 「味付け」も、食材が5、6種類もあれば、それだけで味がついて充分うまい。

 それで、弁当屋の弁当、あるいは料理屋の食事はすっかり敬遠するようになったのだ。

 そんなにしょっちゅう食べていたわけではないが、ケンタッキーのフライが大好きだったのだが、今はとても怖くて食えない。

 月に一回ぐらいは食べても構わないと思うが、油を控えた食事の後で普通の牛乳を飲むと非常に脂っこいので、それを思うと、あのジュージューのフライドチキンは見るのも怖い。

 日本一のベジタリアン、メルツバウの秋田昌美氏は、公演のたびに、「ケンタッキーは食べるな」というビラを撒いているそうだけれど、頑張れ、秋田昌美。

 私は一時(2週間くらい)ベジタリアンを目指したが、無理でした。

 あれ?

 私は何を書きたかったのだろう?

 NHKのニュースに文句を言いたかったのだ。

 去年、日本は30年ぶりに貿易赤字になったんだそうで、NHKニュースでは、この「危機」をどう脱するか、プロジェクトX(はもうないけれど)張りに、海外に工場を移転しながら、国内の就業者数も減らす事なく維持している会社を紹介したり、こういう風であってほしい日本に誘導するのに必死。

 うんざり。

 昨今の格差社会については、世界中で格差の縮小、中産階級の復活(先進諸国では)が叫ばれているんだそうで、それはニュースとしては、そういう動きがある……ということは現実はそうではないということだが、まあそれはともかく、中産階級の充実、拡大がアプリオリに「いいこと」かというと、それはNHKごときが考えることではない。

 NHKは、あくまでも「ニュース」として淡々と伝えればいいのだ。

 貧乏人の私としては、「中産階級」に格上げされることなんか全然望んでいない。

 貧乏人としてちゃんと生きていける事、それが望みであり、そのために「格差社会」で、金持ちが増える事が有効であるなら、それがよい。

 ブレヒトは、そう言っている。

 「国は富み、人は貧しくあるべきだ」と。

 これは、金持ちの冨を国が貧乏人に有効配分するということを言っているのだ(と思う)。

 「普遍的人権としての乏しさへの権利」とブレヒトは言う。

 正直言って、ちょっとわかりにくい日本語なのだが、翻訳を介して正しく想像すればいい。

 いずれにしろ、中産階級の非人間性はよ~くわかっているつもり。

 共産党の評判が最近いいのも、中産階級の欺瞞性を心底知っているからだろう。

 また話が拡散してしまった。