パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「3丁目の夕日」と「アンナ・カレーニナ」

2012-01-13 22:26:52 | Weblog
 フライパンの調子はまあまあいいようであるが、シチュー鍋の調子が良くない。

 例えばカレーを作ろうと思ったら、油をしいてニンジン、ジャガイモ、タマネギ、肉などをまずいためるわけだが、このとき、しょっちゅうしゃもじかなにかでかきまぜていないと、これも「あっという間」に底にこびりついてしまうのだ。

 フライパンでないからしょうがないのかも、と思いながら、かきまぜ、火が通ったところで、水をどっと入れるわけだが、水を入れたらあとはふたをして煮立つまで待ち、あとはカレールーをどぼんと入れるだけ。

 さて、できあがったと思って中をかき混ぜようとすると、肉、野菜が底にこびりついてしまっている。

 しゃもじで必死にひっくり返してみると、底にへばりついていたジャガイモのへばりついていた部分が焼けこげているのだ。

 もちろん、肉も焼けこげ状態で底にこびりついている。

 底にこびりついていないのは、煮ている間、鍋の底に直接接触しなかったものだけ。

 私は「お焦げ」が好きなので、「まあいいや」と思って、そのまま食べているのだが、これも使うたびにだんだん程度がひどくなっているので、どうにかしないといけない。

 「三丁目の夕日」らしき映画をさっきまでやっていたが、あんな映画がなんで人気があるのだろう。

 地方から集団就職でやってきた女子高生が、就職先で、「あのー、私どんな仕事なんでしょう」と社長にいうと、仲村トオルらしき社長が「自動車の修理だよ」。女子高生「ええ? 女秘書ではないんですか?」

 な、なんという会話。

 もちろん、これから「しこむ」か何かしてから、自動車をいじらせるんだろうが、自動車の修理工場に女子高生が就職すれば、当然、その女子高生は事務を担当すると思うだろう。

 あわよくば、社長の秘書を夢見ることはあるかもしれないが、油にまみれてエンジンを分解したりするなんて、まさかである。

 三文文士で、アルバイトで少年雑誌に小説を書いている男が、子供を預かってくれと頼まれ、その場では「ああいいよ」と答えたが、それはその場の口先だけの約束で、その子供(小学校3、4年生くらい)が、男の後を追うと、犬を追い払うように邪険に追い払う。

 男は別に意地悪な性格でもなんでもないので、この場面はドラマ的にはまったく無意味で、実際、結局預かる事になる。

 だったら、なんであんな場面を挿入するのか。

 預かってくれといわれ、驚く男の顔(アップ)。

 男の部屋にかしこまっている少年。苦虫をかみつぶしたような男の顔。

 で、いいじゃないか。

 なんで、わざわざ無駄を入れるか。(まあ、入れたっていいのだけれど)

 目立ったのは、妙にリアルな映像の質感。

 制作側としては昭和30年代をいかにリアルに描くかを目指したのだろうが、結果的にはスーパーリアルというか、非現実感が漂っている。

 といった印象で「三丁目の夕日」は打ち止めとして、昨日古本屋で600円で買ったトルストイの「アンナ・カレーニナ」全七巻(一冊100円、三巻のみ欠品なので、600円)のうち、第一巻を引っ張りだす。

 「幸福はどこも似たり寄ったりだが、不幸はそれぞれちがう」の名文句ではじまる小説で、小難しい倫理の話が展開するのかと思いきや(そう思っていたので敬遠してきたのだが)、少なくとも今のところは全然そうではない。

 ゴーリキーの「死せる魂」を彷彿とさせる、というか、明らかにパクリではないかと思わせるような、小金持の滑稽で風刺の効いた描写が続く。

 しかも、その合間にちゃんと主人公のアンナ・カレーニナが、そこはかとない不幸なイメージを漂わせつつ、早くも登場している。

 ゴーリキーは、すべての近代ロシア小説の元祖らしいから、トルストイが似ているのも不思議ではないのかもしれないが、ゴーリキーに輪をかけた「うまさ」に驚き、なおかつ、その「うまさ」の前に、さすがのゴーリキーも色褪せてしまうか……と思いきや、そうではなく、改めて「なんてゴーリキーはすごかったのだ!」と思わせてしまうことに、さらに驚く。

 天才同士だと「剽窃」もあり得ない、というか、「剽窃」もまた別の形態をとってしまうのだろう。