パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

余計なお世話

2012-01-15 14:30:39 | Weblog
 昨日だったか一昨日だったか、フジテレビの深夜のスポーツニュース(なんていうのだったか、ど忘れ。新聞とってないので番組の名前も、昔からやっているものは別として、知っているものがほとんどなくなった)で、ヨーロッパのサッカーのフリーキックでとんでもない驚愕の事件が起きたというコメントとともに、CMの後で、とお決まりの台詞。

 番組を変えようかと思ったが、どんな驚愕の事実が放映されるのか、興味があったので、割って入るCMも見る事にしたら、割って入るCMが一つじゃない。たしか、三つほど入ったと思うが、そのたびに別のニュースが流れ、「驚愕の事件はこの後で」の台詞とともにまたCMになる。

 怒り心頭に達したが、自分の「怒り心頭」の現状をちゃんと見極めたいと思い、がまんして見ていると、けっきょくその「驚愕の事件」とは、フリーキックで蹴った瞬間、ボールが破裂してしまったという、ただそれだけ。

 もう、今後「後回し」の場面に出くわしたら、迷わずチャンネルを変える事を決意した。

 少し前、中国で、この「日本式」のCM挿入を実施したら、全国の視聴者から抗議が殺到し、すぐに中止したそうだが、日本でもこれに怒っている人が少なくないはずだ。

 そもそも、なんで「伝えたい事」を後回しにするのか。

 もうだいぶ前の事になるが、野坂昭如が、週刊誌のエッセイコラムを連載する事になった誰かに「書いてしまうとネタ切れになるから、なんて心配せずに書きたい事を全部その回で書くこと」とアドバイスした、と書いていた。

 「後回し」にしたネタは、結局そのまま腐って使えなくなるというのだ。

 テレビ朝日の、深夜番組で、草とユースケサンタマリアがレギュラーで、大熊が司会をしているバラエティ番組が唯一、「割り込みCM」のない番組だった。

 これを見ていて、「決着がつくまで一気に見る事ができる」ことがなんと気持ちのいい事かと改めて思い知ったのだったが、これがちゃんと改まり、「世界基準」になるのはいったいいつのことか、わからない。

 つい先刻、Eテレで、「デジタル放送でどんな風にメディアが変わるか」というテーマの宣伝番組を、昨年八月放映分の再放送として流していて、そこで、デジタル化によって、パッシブ(受動的)メディアであったテレビ放送がアクティブ化すると、どこかの教授が「予想」していた。

 ただし、「受動的」なことにも「みんなが同じものを一度に見る」というメリットがあるので、将来は、このメリットをとりこむようなかたちで「進化」していくのではないだろうか、というのが教授の意見のようであった。

 その具体例の一つが、またしてもCMメディアで、たとえば街の広告看板や自動販売機にその前に立つ人の性別、年齢、複数の場合はその人数等を判別する装置をつけ、それにあった宣伝をするという仕掛けを紹介していた。

 余計なお世話――それだけ。

 そう言えば、タバコの自動販売機に二十歳以下の若者には販売できないように、画像判別機能をつけた自動販売機ができたとか、放送していたが、あれどうなったのか。

 ここ十数年、こんなことばっかりやってきたような気がする、我が日本は。

 ところで、私が「パッシブメディア」を擁護する由縁は、そもそも「情報」というものが、損得勘定とは別のものだと思うからだ。

 具体的にいうと、例えば昨日、インディ・ジョーンズシリーズをやっていたわけだが、昨日のは、シリーズの中でもたぶん、駄作中の駄作だろうと思うし、したがって途中で見るのを止めたのだが、じゃあ、時間を損したと思うかというと、そうではない。

 マイナス価値の情報も立派な情報なのだ。

 あのつまらないインディ・ジョーンズを見て、よくできているジョーンズシリーズが「よくできていること」を改めて思い知ることができる。

 もちろん、あのインディ・ジョーンズを「面白い」と思う人だっているだろう。

 パッシブメディアは、こういう「選別」をあらかじめ引くことなく、情報を提供する。

 「この選択があなたにとって最適です」、なんて「余計なお世話」は言わない。

 どうも最近のNHKは、こういう利得主義というか、資本主義の生き残り策を積極的に応援しているような気がしてならない。

 NHKはそのような観点から離れた、本当に中立の立場でものを言うべきだし、それができる立場でもあると思うのだが。

 ところで、昨日、本屋で野坂昭如の「新刊」を見たような気がする。

 野坂は、今の日本について何か言う権利と義務がある一人だと思うので、もし、「見たような気」が錯覚でなければ、明日にでも本屋で立ち読みしてみよう。(本屋は立ち読みできるのがよい)