パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

機械の夢?

2007-02-13 16:33:45 | Weblog
 西川口のアパートには、自動湯沸かし器がついているが、昨今、あちこちで人を殺して問題になっている室内型ではなく、水道の蛇口自体が冷水から温水まで無段階の切り替え式になっていて、住人は基本的にそれをいじることのない、「室外型」である。温水が出てくるまで、冬の間はどうしても余計に時間がかかるが、それでも2、30秒も待てば温かいお湯が出てくる。
 ところが、一昨日の夜、突然温水が出なくなった。5分近く出しっ放しにしても、痛くて切れそうになるくらい冷たい水のままだ。
 それで、一晩たった昨日の朝、事務所からガス会社に電話をしたら、何かの拍子で自動的にストップしたかと思われるので、室外機を点検して、もし赤いランプが点滅していたら、その脇に黒いキャップがあるから、それをとって、中にある復元スイッチを入れてください、もし、点滅していなくて、それでもお湯が出ない時は、故障等については24時間体制で対応しているので、もう一度電話して下さいと言われた。
 それで、帰宅後、すぐに部屋の外の機械室のドアを開けて覗いたら、ランプは点滅していない。
 すぐに電話をしようと思ったが、電話をすると直る、という経験が何度もあるので、もう一度確かめる積もりで、風呂の蛇口を熱湯ポジションに思いきりひねってみたが、やはり、お湯は出てこない。バスタブの底から15cmくらいになるまでためてみたが、冷水のままだ。
 それで、ガス会社に電話をしたが、インターネットの相談センターみたいに電話が込み合っていた。深夜、12時に近いというのに、時節柄、問い合わせが多いのかなと思いながら、「しばらくお待ちください」という録音アナウンスを聞いていたが、なかなかつながらず、退屈まぎれにふと台所の蛇口をひねった。すると、なんと!数秒を経ずにお湯が出てきた。そしてさらに数秒で、アッチッチなお湯になった。
 あ、なんてこった!と、風呂場に駆け込んで試したら、こちらも同様に、あっという間に熱湯が出てきた。

 どういうわけだ? パソコンなら、こちらの操作ミスということがあるのだが、室外温水器で、こちらは蛇口をひねるだけだから、ミスのしようがない。だとしたら、室外機がどこかおかしかったのだが、でも、治ってしまったのでは文句も言えない。
 それで、電話は、つながらないまま、切ってしまったのだが、ぎりぎりになって回復するなんて、室外温水器に何が起きたのだろう。持ち主にちょっと悪戯をして、喜んでいたのか?

 そんなことを考えていると、ふと、深沢七郎の『風流夢譚』を思い出した。

 『風流夢譚』は、「わたし」が寝ると同時に、時間の進行がとまってしまうという、奇妙な「癖」を持った腕時計を持っている「わたし」が、ある日、10分間ほどうたた寝をして夢を見、起きてからその腕時計を見たら、針がちゃんと10分だけ進んでいたため、「わたしが夢を見ている間、この時計も起きていてくれたのだ」と、涙が出る程嬉しくて、その腕時計を抱き締めたというお話で、その時、「わたし」が見た夢が、東京で革命が起きて天皇一家の首がちょん切られるという夢だったという仕掛けの小説である。
 なんというか、人間と機械がシームレスにつながっちゃった世界というか。
 
 そこで、またまた話が横滑りするのだが、『風流夢譚』の作者の深沢七郎は、魯迅の『阿Q正伝』の阿Qみたいな人ではないのか。

 《「あんたはまた何をしにお来やした?」彼女はびっくりして言った。
  「カクメイだ…あんた知っとるか?…」阿Qはあいまいに言った。
  「革命革命って、革命はもう済みましたよ…あんたたちはわたしたちをどういう風に革命するおつもりかえ?」年とった尼は眼を赤くしながら言った。
  「なんやて?」阿Qはいぶかった。
  「あんた、知らないの。あの人たちはもう革命してしまいましたよ」
  「誰が?」阿Qにはますます不思議だった。
  「あの秀才と毛唐ですよ」
  あまりの意外さに阿Qは呆然とした。》魯迅『阿Q正伝』(高橋和巳訳、中公文庫 吶喊 より)

 知識人(秀才)と西欧かぶれ(毛唐)たちがなんで、「革命」を遂行しなければならないのか? 革命が必要なのは、一文無しの文盲、阿Qではないのか? でも、殺されるのは阿Qたちだ。

 深沢七郎は、『風流夢譚』の出版がもとで、出版元の中央公論社の社長宅に住み込んでいた女中が殺され(同時に、社長夫人も刺されたが重傷ですんだ)たことに衝撃を受け、記者会見で涙をぽろぽろ流して、「まったく関係のない人を死なせてしまった責任は私にある」と謝罪し、「誰か、私を殺してくれ」と言って、放浪生活をはじめる。
 深沢の流した涙は、「なんの関係もない」女中さんが死んだことに対するもので、言い換えると、中央公論社の社長夫人か、あるいは、社長自身が殺されるなら、「話の筋道は通っている」のだ。しかし、深沢はそこまでは言えなかった。

 魯迅にくらべ、やはり、ひとまわりもふたまわりも人間が小さかったことは否めない。

 アマゾンの「アソシエイト」なるものをやってみました。
 それから、「シームレス」つながりで、こんなサイト見つけました。ちょっと重いけれど、面白いです。