パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

高峰秀子自伝と…

2007-02-09 22:46:39 | Weblog
 フリーマーケットで高峰秀子の自伝『わたしの渡世日記』(上下)と、昭和24年刊の『和服裁縫』(夏・冬)を買った。高峰秀子の自伝だけで良かったのだが、売り主が、4冊買ってくれるなら1冊百円でいいと言うので、自伝だけならいくらかと聞くこともせずに、買った。昭和24年発売の裁縫の本なんか、売り主もまさか売れるとは思っていなかっただろう。
 それくらい、高峰秀子の自伝が欲しかったということなのだが、別に彼女のファンというわけではない。映画もほとんど見たことがない。ただ、子役からスタートして、無声映画の時代からずーっと活躍してきた人ということに興味があった。
 それで、まだぱらぱらと見ただけなのだが、高峰秀子は1924年生まれ。ということは、まだ83歳。83歳で“まだ”はおかしいが、三船敏郎が東宝のニューフェイスに応募してきた時、“審査員”の側に座っていたというのだから、驚きだ。今や、日本映画史上最高傑作と言われるほどになった成瀬巳喜男の『浮雲』で、自分の役者としてのキャリアを終える積もりでいたというのも、びっくりである。
 実際、『浮雲』完成後に高峰秀子は、脚本家の松山善三と結婚し、半分引退状態に入ってしまうわけだけれど、それ以前、戦前の無声映画の時代から芸能界で生きてきたことをほとんど知らなかった私は、どこか金持ちのお嬢さんで、芸能界にしがみついて生きていく必要もないのだろうと、彼女の「童顔」も重なって、考えていたのだが、実は、そんな想像はとんでもない話で、彼女の母親は北海道函館の場末の活動写真館でなんとか糊口をしのいでいた女弁士で、その芸名が高峰秀子だったんだそうだ。
 それが、ひょんなことで子役として売れてしまい、以来、一家を支えるために、こまどり姉妹も顔負けの、ずっと働きづくめの青春時代。それも、『浮雲』でうちどめで、後は仕事を選んで悠々自適で暮らしたいというのが、彼女の人生設計だったようである。

 それにしても…彼女の全盛時代、私はまだ小学生。「小学生なんかが見る映画じゃないだんだろうなあ…」と思いながら、彼女がスペードのエースを悔しそうにくわえて寝転んでいる、『女が階段を上る時』のポスターを見たことを覚えている。
 確か、父親に聞いたのだ。「なんで、スペードのエースをくわえているの?」と。そうしたら、「スペードのエースはカード占いでは一番悪いカードなんだ。ところが、それが出ちゃったんで、それで悔しくて噛んでいるんだ」と。
 なるほどねえ…実際、彼女はパリでジプシーの占い師に、それに近い星のもとに生まれた、とずばり言われたらしい。

 というわけで、主婦と生活社の和裁の本なんですが、欲しい方いますでしょうか。ただでさしあげます。和装コスプレなんかに便利と思いますよ。