パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

剣闘士の夢

2007-02-17 19:04:58 | Weblog
 屋上の貯水タンクの掃除のため、今朝から明日昼までトイレが使えないため、近所のコンビニでトイレを借りた。

 新宿から上野にやってきて、最初に感じたのは、7、8割方のコンビニに、コンビニで買ったお弁当であるとか、カップ麺であるとか、菓子パンなどを食べたり、缶コーヒーを飲みながらタバコで一服するためのコーナーが作られていることと、トイレを借りる人が多いことだった。
 新宿の場合、ミニストップをのぞいて「お食事コーナー」はなかった。トイレを借りる人はもちろんいたけれど、あくまでも「緊急用」で、「まことに申し訳ない」といった顔でトイレに向かうが、上野の場合は、「トイレ借りま~す」という感じでひっきりなしにやってくる。

 そのようなわけで、「お食事コーナー」でくつろぐことも、トイレを借りることも、ちょっと違和感があって、これまで一度もなかったのだが、今回はしょうがない。惣菜パンを買ったついでに、「お手洗いをかしてください」と断って(そう貼り紙されていたので)、トイレに入ったのだが、入ってびっくり。いや、びっくりするほどでのことでもないけれど、トイレのコンセプト(?)が、完全に「公衆トイレ」なのだ。 要するに、そのコンビニが入っているビルのトイレ施設を使っているのでは、明らかにない。「トイレ借して!」と飛び込んでくる人が余りに多いので、コンビニ側で後で作ったのだ。

 東京(首都圏)以外のコンビニに入ったことは、ほとんどないのだが、他の地域ではどうなのだろう。ちょっと興味がある。あと、「借しトイレ」と「インスタント食品お食事コーナー」がセットで設けられている確率如何なんてことも、興味深い。うん(こ)。

 『グラディエイター』を見る。

 例によって、途中(ゲルマン対ローマ軍の戦闘シーン)から見たので、最初は、『ブレイブハート』かと思ったが、『ブレイブハート』の戦場は草原だったが、こちらは森の中だ。ラッセル・クローも見たことがなかったので、主演らしき男を見ても誰だかわからず、「はて? なんて映画なのだろう」と思ったが、クローが、新しい皇帝の姦計にはまってグラディエイター(剣闘士)に仕立て上げられるところで、はじめて、「あ、そうか、これが『グラディエイター』か!」と気がついた。(題名当てゲームみたいで、楽しい)
 敵役の、「性格が歪んだ」皇帝を演じていたのがリバー・フェニックスの弟のホアキン・フェニックスだということも、はじめて知った。
 ホアキン皇帝は、父皇帝を自ら殺し、新皇帝の位につくが、その時、父皇帝から深く信頼されていたクローを殺そうとする。しかしクローはその魔手を危機一髪で逃れ、遠くスペインの地で剣闘奴隷となり、勇名を馳せるようになる。
 やがて二人は、満員の観客が注視するもと、闘技場で対決することになる。もちろん、皇帝がクローにかなうはずはないが、悪知恵の働く皇帝は、戦闘の直前に隠しもっていた短刀でクローの腹を深く刺し、重傷を負わせ、その上から鎧を着せて傷を見えなくしてしまう。見る人(観客)にとって、それが見えなければ、傷は存在しないも同じである。しかし、クローの強さ、執念(皇帝に妻子を殺されている)は、皇帝の予想外で、激闘の末、クローは皇帝を倒すが、自らも、戦闘に先立って皇帝によって負わされた傷の痛手で死ぬ。

 という話。ローマ皇帝が満員の闘技場で、奴隷である剣闘士と闘って殺されるなんて「創作」だろうと思っていたが、闘技場ではないが、剣闘士に暗殺されたローマ皇帝は現存するそうで、『グラディエイター』は、それを元に作られた映画なんだそうだ
 もちろん、「暗殺」と闘技場で衆人注視のもとで殺されることでは、根本的にちがう。

 たとえば、敵役の皇帝は性格が歪み、正直さも、慈悲も、勇気も持たないが、大衆操作に関しては天才的で、彼らを煽り、その支持で皇帝の地位を保っている男。しかし、それゆえに、今で言えば、大スポーツ競技場である闘技場で、支持者である「大衆」が見つめる中で奴隷と対決することを余儀無くされるのである。
 この「大衆」こそが、『グラディエイター』の一貫したテーマなのだが、一方で、終始、クローの心象風景で綴られた映画でもあり、皇帝を倒したクローが、皇帝に殺された妻と息子のもとに旅立つエンディングは、一種の「夢落ち」とも言える。すべて、「ある死にゆく剣闘士の夢だった」と。

 「夢落ち」に百億円超の制作費てか。でも、さすがに戦闘シーンは凄かった。