パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

吉田兼好の「科学精神」

2006-09-30 15:48:53 | Weblog
 小野紳先生が見ていて下さったとは。これが、ネットの面白いところ。
 と言うわけで、少し気を入れて。

 先ほど、自転車屋に行ったら、開店一分前で、まだ開いていなかったので隣の古本屋のワゴンを覗いたら、「徒然草」が目に入った。講談社学術文庫巻4で、ぱっと開けたら「ぬしある家には」で始まる二百三十五段だった。

 「ぬしある家には、すずろなる人、心のままに入り来ることなし。あるじなき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐、ふくろふやうの物も、人げに塞かれねば、所得(ところえ)顔に入りすみ、木霊などいふ、けしからぬかたちもあらはるるものなり。
 また、鏡には色、形なきゆえに、よろづの影来りて映る。鏡に色、形あらましかば映らざまし。
 虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに、そこばくのことは入り来らざるまし。」

 要するに、主人のいる家に、通りがかりの者が勝手に入ったりはしないが、主人がいない家には、誰もが勝手に立ち入り、狐やふくろう、はては「木霊」などというあやしげなものも現れる。……だから、人は常に心に「主」なるものをしっかり持っていなければならない……と言うのかと思いきや、そうではない。むしろ、主のいない家のようなものであることこそ、心の本質だと言っている(のだと思う)。
 解説者(三木紀人)によると、「虚空=心」のような考えは大燈國師の法話などに既に見られるもので、したがって、この段も、『徒然草』の一般的評価の言葉として定着している「中世的無常感」を現わしているということになるのだが、そうだろうか? 私には、ここにあるものは、「無常感」というより、科学者のような冷静な観察眼のように感じられるのだが……。
 たとえば、「鏡には色、形なきゆえに、よろづの影来りて映る。」という箇所の現代語訳(?)は、「鏡には色や形がないので、あらゆるものの影がそこに現れて映る」と、そのまんまである。しかし、鏡にはちゃんと色や形が映っている。ただ、それは常に鏡の外の世界であって、鏡が鏡自身を映し出すことはない。鏡は「すべてを映すことによって、自分を隠す」存在なのだ。つまり、兼好の言う、「鏡の色、形」とは、「鏡の自己像」のことにちがない。さもなければ、「鏡には色、形なきゆえに」が、「よろづの影来りて映る」につながることはない。

 ライプニッツは、人間の精神jを《永遠の生きた鏡》にたとえたそうだが(ナツメ社刊『図解雑学・身近な哲学』より)、これは、吉田兼好の「鏡には色、形なきゆえに云々」と同じことを言っているのではないか。(ただし、兼好はライプニッツより300年くらい前の人。もし、この箇所が兼好自身の観察によるオリジナルな考えだとしたら、凄過ぎる)

 割と知られている話(第二百六段)だが、ある日、一匹の牛が御殿に上がり込み、大臣の座を占めたまま座り込んでしまった。この怪異をいぶかんだ人々が陰陽師を呼びにやらせるなど大騒ぎになったが、その大臣の父親が、牛は無分別なもの、御殿に上がり込んだといって、不思議なことではない、と騒ぎを納めた。その後、別に変なことはひとつも起こらなかった。
 ……というのだが、大事なのは、兼好がさらにこうコメントしていることだ。

 「あやしみを見て、あやしまざる時は、あやしみかへりて破る」

 つまり、怪しいと思うから怪しいことが起きる。怪しいのを見て怪しいと思わなければ、怪しいことなど起こらない、というのだが、ここにも、明解さを尊ぶ「論理」が確かにある。

 要するに、『徒然草』を、無常感でくくったり、そうでなければ、処世知で説明したり(たとえば、古に倣った煩雑な手続を主張する人に対し、用を足せれば良いのだといったあたり。しかし、ここにも、単なる功利主義以上に「単純なものほど論理的にすぐれている」とする、オッカム流の「論理」のにおいがする……というのは、ちと牽強付会か)するのはもったいないのではないかという話。