パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

麻原死刑確定の日に

2006-09-16 17:19:34 | Weblog
 作品(?)、二つだけだとちょっと見てくれ、寂しいみたいなので、もう一つアップしておきました。ちょっと、他のとはイメージがちがうのですが……見て下さい。

 久し振りにテレビを見る。
 大相撲。上位はすっかり外人ばかり。しかし、以前だったらしらけてしまったと思うが、「外人同士」の取り組みでもそれなりに面白い。特に、東欧、ロシア系はライバル心がすごそうで、以前の、曙対武蔵丸みたいな、「なんなんだかなー」感はない。それにしても、やっぱり、日本人力士が少しは噛んでくれないと困る。栃東は結局駄目みたいだし、雅山は面白いけど……有望なのは、結局、愛子様御贔屓の琴光喜か、朝青龍に勝った稀勢の里かな。

 「太田総理云々」とかいうテレビ番組があるらしくて、その総集編らしきものを見た。
 「お笑い芸人」ごときがなにを言うか、とは言わないが、「俺は、政治家なんか一切信用しないから、俺が自分で喋るんだ云々」という太田の言葉はおかしい。日本は代議員制の国であって、太田はその面からすれば、一有権者に過ぎない。したがって、政治的意見を表明する場合も、「俺は自民党支持」「俺は民主党」「いや、共産党」みたいに言えばいいのだと思う。それを、太田は、まるで自分が世論を作るんだ、みたいな……まあ、そんなに形式ばって考えることもないのかも知れないけど……ともかく、政治家というのは、ある意味「喋りのプロ」であって、誰でもいいから、テレビのニュースショーでもバラエティ番組でもなんでもいいから、彼らに仕切らせれば、今すぐだって、完璧にこなしてみせるだろう。阿部晋三司会のNHKふるさとのど自慢なんか、……はまりすぎくらいはまり過ぎだ。
 もちろん、政治家をどんなにバカにしも、揶揄しても逮捕されたりはしないが、それこそ、日本が民主主義国であることの証拠であって、そのことを太田はもっと尊重すべきだろう。今のままだと、太田は結局墓穴を掘ることになりかねないのではないか。

 それはそうと、太田は護憲論者らしいが、その理由は、戦後日本は、憲法のもとで右往左往させられ、散々迷ってきたが、この「迷うこと」が大事だ、というものらしい。
 しかし、……これまた形式ばった物言いになるが、迷った際の、最後の判断のよすがになるのが憲法だろう。では、「迷うことが大事」なら、たとえば戦争責任問題で、当事者を含み、みんなで責任者を探しても、最終責任者が誰なのかわからず、結局、「一億総懺悔」という結論になったことだって、真っ先に「是」とすべきだろうが、「護憲論者」に限って、責任を曖昧にするのが日本人のいけないところだとか言う。
 私は戦争が終わってから生まれたのだが、戦争責任は誰にあるかと言えば、結局、日本人全員なんだとしか言い様がない。そして、それで、どこがいけないの?と言いたい。立派な結論ではないか。
 実際のところ、そういう結論を胸に秘め、戦後一生懸命に働いてきた結果、今の日本があるのじゃないの? お前のせいだ、いや、お前のせいだと罪の指弾に終始したら、それこそ、今のイラクみたいになっちゃってたとしても不思議ではない。大体、丸山なんとかという中途半端な近代かぶれが、「無責任体制はよくない」と言っても、その丸山自身、じゃあ、誰の責任だったの?と聞かれたら、ちゃんと答えられない。それでも、「無責任体制はよくない」って言い募るとしたら、それは、「ないものねだり」というしかないのではないか。

 それはともかく、太田の言っていることは、つまるところ、加藤典洋の『敗戦後論』そのまんまだ。そして、その加藤典洋はというと、もっとも忠実な吉本隆明主義者だろう。どこら辺でかというと、さっき、加藤の『敗戦後論』をぱらぱらとめくっていたら、こんなことを書いていた。
 「すべてが終わった後、誤らない(=正しい)考えを明らかにすること」と、「たとえ、誤っている可能性があっても、その場で考えられた思想は、その場で表明されねばならない」という二つの態度があって、吉本は、戦後、徹底的自省の結果、断固として後者を選ぶことにしたが、自分(加藤)もそれがよい、というか、それを模範としてきた、と。
 即ち曰く「思想の意味と価値が、誤らないことにあるのなら、どう考えても、誤りうる同時期の思想よりも、誤らない事後の思想のほうがよいことになるが、私たちの心の中には、たとえ、誤りうるとしても、同時期に発生する思想の中に、何か大切なものがあるのではないかという感じが生ずるのは何故だろう」
 な~んか、もったいぶった言い方が、そもそも気に食わないが(~感じが生ずるのは何故だろう、って、それはあんただけだろ、って言いたい。少なくとも、私は!)、ここらあたりから、憲法をめぐって「迷う」ことを「是」とする考えが出てくるのだろうが……しかし、「誤ってもいいのだ」って、それはよくないでしょう(笑)。加藤も吉本も「誠実」かもしれないが、それを売り物にしている……というと口が悪いが、はっきり言って、あまり頭がよくないのではないか(もっと悪いか)。
 加藤は(多分、吉本も)、「迷うこと」を「是」とする態度を、「戦争という誤りを経験した戦後日本人としての、原理的立場」として語っているようだが、ハッキリ言って、これは「原理」にはなり得ない。もし、人間がどうしても「誤りうる存在」であり(それはそうだ)、それを「原理」として表現したいのなら、むしろ、「君子豹変す」が適当でしょう。つまり、結論は、全然逆なのだ。「頭がよくない」と、言いたい由縁である。(「君子豹変す」の君子は、知識人のことで、それより上の「聖人」の場合はまたちがう言い方をするのだけれど、ちょっと忘れてしまった。ちなみに、太田は、以前は改憲論者だったと言っているそうで、つまり、今の立場を「ギャグ」として説明しうるように準備しているらしいのだが、だったら、太田君、今じゃなくてもいいから、いずれまた「豹変」しなさい。それで、「ギャグ」は完成し、君も芸人として生き長らえることができる)

 麻原死刑確定の日に記す。(そう言えば、吉本は、麻原を希有の宗教者と言ったんだよな~、「同時期になされた真摯な発言」として。もっとも私は麻原の発言を読んだことはほとんどないし、したがって、麻原の宗教者としての評価についてはなんともわからないから、吉本が麻原を評価したことをどうのこうのは言わないがでも、今はどう思っているんだろう……そういえば、ウチの代表の原稿を『月光』に掲載したいって、オウムの広報から電話がかかってきたことがあったっけ。いや、ほんとの話。クワバラクワバラ)