パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

お経と野球

2006-03-22 15:03:41 | Weblog
 日本対キューバ戦、日本が初回で四点リードというところまで見て、愛宕山のお寺に行く。お彼岸の法事なのだが、一応、去年、喪主をやらされたもので、右代表という感じで。
 着いたら、もう読経は始まっていた。住職にその息子らしい、林家正蔵的雰囲気の副住職、さらにその子供らしい、まだ小学生前の、まさに「小坊主」さんが並んでいる。(あともうひとり、補佐役的雰囲気のお坊さんがいた。)
 「小坊主」は、最初はお祖父さんの読経を神妙に聞きながら、ちょっとお経も唱えていたみたいだが、やがて飽きてしまったらしく、落ち着かなくなった。でも、檀家さんにはああいうところが受けるのだろうな。歌舞伎で、一門の最年少である「孫」が桃太郎に扮して、鬼役のお祖父さんを踏んづけて拍手喝采をもらったりするのと同じだ。

 お経が終わってから、浄土宗の歴史を少し話してくれた。浄土宗の歴史というか、「南無阿弥陀仏」つまり、念仏の歴史だ。
 浄土宗の開祖はもちろん法然だが、法然は最初、天台宗の学僧だったそうだ。天台宗はエリート知識人の宗教で、「南無阿弥陀仏」も阿弥陀様を実際に「見る」(もちろん、「幻覚」なのだが)ためのサインのようなもので、「視知覚」を妨害しないように、口に出して唱えることは禁止されていたのだそうだ。
 これに疑問を抱いたのが法然で、阿弥陀様を「見る」のではなく、阿弥陀様に「救われる」ことが大事なんだということで、口に出して唱えなければならないと主張した。何故、口に出すようにしたかというと、「知」に対する根本的疑念、反逆ということだろう。
 元天台宗の坊さんとしては、すごい逆転の発想だ。(あるいは、天台宗の学僧として、その「知」の奥義を極めたという自覚があったのかもしれない。)
 この法然の思想を引き継いだのが親鸞だけれど、親鸞が、どう「念仏」に新たな解釈を加えたかというと、ちょっと忘れてしまった(笑)。しかし、その後の「念仏宗」である時宗の一遍は凄い。念仏を唱えれば救われる、なんて甘い、救うか救われないかは、すべて阿弥陀様が決めること、我々はただ念仏を唱えていればよい、という。これが、いわゆる「踊り念仏」だが、ここまでくると、キリスト教のプロテスタントと同じになる。救うか救わないかは神様が決めることで、人間はそれを知ることはできないという、いわゆる「予定説」だ。

 じゃあ、日蓮宗の「ナンミョウホウレンゲキョウ」の、いわゆる「お題目」はどういう位置付けになるのだろう。グーグルで調べたが、よくわからない。個人的な念仏に比べて、「お題目」は積極的に人を、ひいては世界を救うのだという感じだろうか。ちょっと迷惑だったりして。

 お寺の帰り、千駄ヶ谷の明治公園の側を通ったら(お寺には自転車で行ったのだ。なんかミスマッチだ)、フリーマーケットを開催していたので、覗いたら、売り物のラジカセから日本対キューバ戦の実況中継が流れていた。九回、大塚が後二人打ち取れば勝利という場面だった。
 以前から感じていることだが、野球って、試合時間が長い。攻守交代で二、三分使ったり、テレビのコマーシャルだとか、ちょっと用足しがある場合なんかには好都合だろうが、はじめて野球を見る人は、なんと間が抜けたスポーツだろうと思うのではないか。いや、だからといって、別に、試合時間を短縮せよ、なんて言っているわけではない。あの、一見ちんたらした駆け引きも、野球の面白いところだ、と思っているので。何はともあれ、日本野球は結構すごい。

 フリーマーケットでは、ひと振りすると適量が出てくるという砂糖入れを買った。この道具は最近ちょくちょく日本でも見かけるが、これに最初に眼をつけた日本人は植草甚一だ。たしか、小林信彦のエッセーだったが、植草甚一がニューヨークでこれを買ってきて、しきりに「いい、いい」と連発していたが、こんなもののどこを植草甚一が気に入ったのか、さっぱりわからないというのがそのエッセイの趣旨だった。あの「趣味の良い」植草甚一も時として変なものを気に入ることがある、といったコンセプトだ。
 これを読んだのはだいぶ前だが、私も小林信彦の意見に賛成だった。見たことも使ったこともないけれど、小林の文章から想像する限り、あんまりかっこいいとは思えなかったのだ。
 では、それをなんで買ったのかというと、実は、これ、結構便利なことに近年気がついたのだ。植草甚一が気に入ったのも、「趣味」としてではなく、「実用品」として良いと思ったのだ。特に、植草は独り者だったので、たぶん、いちいちスプーンを出し、またそのスプーンを洗わなければならなかったりすることがめんどくさかったのだと思われる。植草甚一=趣味の人にはちがいないが、四六時中趣味で生きているわけではない。
 これに限らず、小林信彦の文章、特にエッセイに関しては、昔は「なるほど」と思うことが多かったのだが、最近は、その納得したはずのことについても、「いや、ちょっと待てよ……?」って、わざわざ而後訂正することが多い。
 なんか、長くする予定は毛頭なかったのに、長くなってしまった。