パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ちと長いです

2005-11-23 16:38:25 | Weblog
 「顔なし発言」の件ですけど、「後で個人では対応しきれないようなことが起きるかもしれない」というのはその通りなんですけど、それを懸念するなら、マスメディアにおける発言を控えればいいではないかということなんですね。……なんて書くと、「言論封殺」と言い出す人がいそうだけど、コミュニティの集まりなどではどんどん発言すればいいし、あるいは投票行動など、意見表明の場は少なくない。
 この問題に関連することとして、最近、「個人情報保護法」の関連で、たとえば小中学校の運動会等で、学校側が写真を撮ることを控える例が増えてきたらしい。「写りたくない」という人に配慮してのことらしいけど、こんなの、運動会場の入り口に、学校が記念としてスナップ写真を撮ることを明記しておけばいいじゃないの。写されていると思わないでいるから、びっくりして、思わず「イヤー」なんて反応してしまうので、写される可能性があると思っていれば、どってことはない。もっとも、自分が意識していないで、あとで「びっくりする」ほうが楽しいと思うけどね。後々の想い出にもなるし。

 「女帝問題」。これは、以前、「結婚特集」で触れた家族制度の問題であり、レヴィ・ストロースのポストモダン思想が「結婚制度の研究」の結果、見い出された思想であるように、結構難しい問題を含むけれど、私は、女系を含めて、「女帝」支持だ。
 基本認識として、まず、愛子ちゃん(笑)は男系女子なので、将来天皇になっても、これまでの伝統から照らしてもまったく問題はない。問題は、愛子ちゃんが子供を生んで、その子供が天皇位につくと、そこで男系が切れて女系になってしまうということであるらしい。
 しかし、現実問題として、愛子ちゃんが結婚するとしたら、それは「養子」ということになるだろうし、それだったら、歌舞伎とか大相撲の世界でも現に行なわれているし、いいんじゃないのと思うけれど、それだと「天皇家」というブランドの正統性が小和田家に移っちゃうということだろうか。うーん、そんなことはないと思うけどねえ……。もっとも鳩山由紀夫によると、もし女系天皇を認めると、「将を射んとすればまず馬を射よ」で、将来、天皇の座を狙う男が出てこないとも限らないとか。さすが、鳩山家、考えることが一般とはひと味違う。(ちなみに、中国、朝鮮などには「養子制度」はない。「ない」どころか、タブー視されてるそうだ。義兄弟なんかにはすぐなっちゃうくせになんで?と思うが……やっぱり「養子」はセックスがからむだろうか……)

 まあ、それはそれとして、反対論の急先鋒、八木秀次氏のHPをみると、男系天皇の伝統を守るためには天皇家の傍系から選ぶ他なく、実際、歴史的にも相当縁の薄い傍系から天皇が選ばれた例は少なくない。だとしたら、それを採用したらどうかというものだった。要するに、男系維持の方法があるのに、それを顧みないでそれを捨ててしまうのは拙速だというのだ。
 確かに、「傍系からのピンチヒッター」で決めてしまえば、これはこれで雅子様の御心労も軽減されるだろう。しかし、一般国民には馴染みの薄いであろう「傍系」から選ばれた天皇にどれだけの人気(支持)が集まるかと言うと、江戸時代以前のように事実上マスコミが存在しない時代ならいざ知らず、マスコミが発達しまくった現代ではちょっと心もとない。(「人気なんかに惑わされてはいけない」と言われるかもしれないが、そうはイカのキンタマよ。……おっと。やっぱり、「人気」は大事だ。「世論」と言い換えてもよい。ちなみに、「世論」は、本来は「輿論」と書き、お神輿をかつぐことに由来する)

 と、そういうわけなのだけれど、私の「女帝支持」は、実のところ、こういった世間の賛否とはちょっとちがった視点からの「支持」なのだ。では、それは何かと言うと、ここ最近の私の持論なのだけれど、ちょうどきっかり1年前くらいから、バブル崩壊後の危機を脱する目処の立った日本政府は、世界政治における超メジャープレイヤーとしての自覚をもとに、アメリカによる世界平和の実現をサポートすることをアメリカに約束した。日本の「約束」は、フィリピンやオーストラリアや韓国の「約束」とは重みが違う。なんたって、日米で世界の富の45%というんだから。
 それはともかく、そういう「約束」を支持する意味で、それまでの小泉不支持から支持に転換したのだけれど、さて、そういう「世界のメジャープレイヤー」としての自覚を持つものに求められるものはというと、グローバルスタンダードの遵守だ。ローカルルールを全部捨てろというのではないが、できるだけ、率先して世界規準を推進する必要がある。そして、それには「女帝誕生」「生別をとわず第一子即位」の原則を打ち出すことは非常にインパクトがある。

 なーんて思ってるのだね。

 話変わって、日本ではトンデモ発明家扱いの中松義郎がイグ・ノーベル賞をもらったとか。イグ・ノーベル賞とは、「人々を笑わせ、考えさせてくれる研究」に与えられる賞で、「笑わせる」という条件があるものの、決してトンデモ発明家に与えられるものではない。
 その中松の「研究」とは、42歳以後35年間、健康維持に供するためすべての食事を写真に撮って記録したのだそうで、この「研究」に選考委員が目をつけたのだ。
 いや、さすがだ。欧米の科学研究者はちゃんと見るべきところを見ている。
 昔、ガリレオの友人であったサントリオという科学者が、巨大な秤の上で長期間生活し、「食事をとれば、その分、体重が増えること、排せつすれば、その分減ること、食事をとらないでも、時間が立つと、発汗、呼吸時の水分発散などの結果、微量ながら、体重が減ること」などを「発見」した。この「発見」は、生命現象が物理現象に他ならないことを明らかにしただけでなく、数世紀後のことだが、分子の発見にも道を開いた「大発見」だったのだ。
 中松の「食事の記録」は、それに匹敵する……てことはないな。中松によると、中年に入って身体の調子が気になり出した頃、「人間は三日前の食事もほとんど覚えていない」ことに気づいて、写真で正確に毎日の食事を記録することにしたのだそうだが、中松の言う通り、三日前の食事は忘れても、二日前、つまり、昨日、ないし一昨日の食事だったら覚えている訳で、てことは、別に写真に撮って記録せずとも、「昨日の記憶」をもとに、「その都度」食事の内容を調整すればよい。自転車漕ぎと同じだ。傾きかけたら、「その都度」、微妙にハンドルを切り、運転姿勢を修正することで結果的に「ほぼ真直ぐ」走ることができる。食事も同じだ。昨日食べ過ぎたと思ったら、今日、控えればよい。35年間も記録しなくても、「昨日の記憶」と、その修正の連続で「ほぼ正しい」食事をとることができる。いや、まあ、これが「イグ・ノーベル賞」である由縁か(笑)。