今日のNHKテレビ「日曜討論」で、社民党が、「自分たちが原発批判をしてきたことは正しかった」と発言。
「やれやれ、社民党は相変わらずだな」と思う。
原発問題は,「正しいか、正しくないか」のイデオロギー問題ではない。
今回の原発事故に関して言えば、これをきっかけに、原発はより安全になるはずである。
それが、「技術」というものだ。
もっともそれは、「事故の収束に成功するならば」、という条件付きであって、「収束に失敗」という、可能性もあるので,その場合は、原発はいっさい作るべきではない。(そうなったら、世界は「未来」を失うのだが。)
それはさておき、一昨日は、ハーバード白熱教室のサンデル教授が「東北大震災がもたらした哲学問題」について、日本,中国、アメリカの一般参加者の討論を仕切るというか、司会をしていた。
その「哲学問題」は多岐にわたったが、私が興味を持ったのは二つ。
一つは、原発事故処理にあたっている日本人の「英雄的行動」についてと、もう一つは、東北大震災という大事故にあっても、日本人が買い占め等の利己的行動を抑制し得ていることをどう考えるか、という問題だったが、正直言って,サンデル教授も、日本人の独特なメンタリティにはあまり詳しくないのだなと思わざるを得なかった。
まず第一の、原発事故処理にあたっている日本人の「英雄的行動」についてだけれど、これは、はっきり言って「カミカゼ特攻隊」の論理なのだ。
それは、サンデル教授も薄々気がついているのではないかと思う。
もしかしたら、気がついていないかもしれないが,日本人は皆、「言えない」だけで、気がついているはずである。
カミカゼ特攻隊の隊員たちには、特別の待遇が与えられているに違いないと、アメリカ人だけではない,日本人以外のすべての人々が思ったのだが,特攻隊員たちは、「分限を守る」という日本人独特の倫理にしたがっただけで、莫大な報奨金があるわけでも、「英雄」意識に裏付けられているわけでもななかった。
原発処理にあたっている人々も同じ。
中には,「日本の社会を守るため」だと語っている原発処理にあたった人もいたが、正直言って,それはちがうと思う。
自分に与えられた職務だから、それを行っているのだ。
もう一つの問題、すなわち、日本人の多くが利己主義的行動を抑制しているというのも、実は,それに関係がある。
サンデル教授は、斯様な危機的事態において頻発する「利己主義的行動」を「家族の利益を守るために行われる」と言っていた。
この言葉を日本人の番組参加者は全員見過ごしていたが,日本人が利己主義的行動を抑制しているのは、日本人が日本社会を「家族」と認識しているが故なのだ。
実は。
以前、呉智英が指摘していたのだが,例えば、スーパーで食品を購入するとき、すべての人は、できるだけ新鮮なものを選ぶが、一旦選んで冷蔵庫にしまわれた食品は、購入時とは逆に、古いものから使う。
サンデル教授の言う、「危機的事態に陥った人々の利己主義的行動」とは、つまるところこのことで、その点、日本人もまったく同じなのだが,危機的状況において,日本人は、日本という社会を「一つの大きな家族」と考え、それを自分たちが家族という絆で結ばれていることの反映と考え、そのように行動しようとしているのだ。
しかし、実は,それは「勘違い」に過ぎない。
日本社会は伝統的に、「家族という絆」の薄い社会であり,それ故に――逆説的だが――「社会の危機」において、社会を家族と見なすことができるのだ。
社会、すなわちコミュニティと、家族、すなわちファミリーという単位は、本来、相対立する概念であり、哲学者のサンデル教授はそれを当然の前提としているのだが、日本人は前提としていない。
ということなのだ。
「いざ」という時、人々は、実体概念である「家族」に頼る。
それが「世界の常識」であり、大家族制度の社会の場合,それは「親戚一同」、いわゆる「一族」に及ぶが、実体概念としての「家族」を有しない日本では、「日本自体が一つの家族だ」というスローガンになる、ということなのだ。
問題は,東北大震災のために叫ばれているように見えるこの「スローガン」が,実際は,バブル崩壊後、デフレに陥った日本のとるべき道の一つとして,その「有効性」は決して実証されたわけではないが、「何をやってもダメ」な状況下、じわりじわりと人々の心理に浸透してきたものだ、ということだ。
有り体に言って,それは、「近代日本の成功に倣え」とするもので、そうである限り,絶対に成功し得ないと、私は思う。
たとえば、今、もっともはっきり人々に見えていることは、菅首相率いる民主党の無能だが,それはつまるところ、松下政経塾の無能ぶりであり、その「無能」は、近代日本の成功を追体験しようしているところにある。
そもそも、「近代日本」が「成功例」かどうかすら怪しいのにぃ、であり、曳いていえば、司馬史観の無効性にもつながるのだろうが、それはまた。
「やれやれ、社民党は相変わらずだな」と思う。
原発問題は,「正しいか、正しくないか」のイデオロギー問題ではない。
今回の原発事故に関して言えば、これをきっかけに、原発はより安全になるはずである。
それが、「技術」というものだ。
もっともそれは、「事故の収束に成功するならば」、という条件付きであって、「収束に失敗」という、可能性もあるので,その場合は、原発はいっさい作るべきではない。(そうなったら、世界は「未来」を失うのだが。)
それはさておき、一昨日は、ハーバード白熱教室のサンデル教授が「東北大震災がもたらした哲学問題」について、日本,中国、アメリカの一般参加者の討論を仕切るというか、司会をしていた。
その「哲学問題」は多岐にわたったが、私が興味を持ったのは二つ。
一つは、原発事故処理にあたっている日本人の「英雄的行動」についてと、もう一つは、東北大震災という大事故にあっても、日本人が買い占め等の利己的行動を抑制し得ていることをどう考えるか、という問題だったが、正直言って,サンデル教授も、日本人の独特なメンタリティにはあまり詳しくないのだなと思わざるを得なかった。
まず第一の、原発事故処理にあたっている日本人の「英雄的行動」についてだけれど、これは、はっきり言って「カミカゼ特攻隊」の論理なのだ。
それは、サンデル教授も薄々気がついているのではないかと思う。
もしかしたら、気がついていないかもしれないが,日本人は皆、「言えない」だけで、気がついているはずである。
カミカゼ特攻隊の隊員たちには、特別の待遇が与えられているに違いないと、アメリカ人だけではない,日本人以外のすべての人々が思ったのだが,特攻隊員たちは、「分限を守る」という日本人独特の倫理にしたがっただけで、莫大な報奨金があるわけでも、「英雄」意識に裏付けられているわけでもななかった。
原発処理にあたっている人々も同じ。
中には,「日本の社会を守るため」だと語っている原発処理にあたった人もいたが、正直言って,それはちがうと思う。
自分に与えられた職務だから、それを行っているのだ。
もう一つの問題、すなわち、日本人の多くが利己主義的行動を抑制しているというのも、実は,それに関係がある。
サンデル教授は、斯様な危機的事態において頻発する「利己主義的行動」を「家族の利益を守るために行われる」と言っていた。
この言葉を日本人の番組参加者は全員見過ごしていたが,日本人が利己主義的行動を抑制しているのは、日本人が日本社会を「家族」と認識しているが故なのだ。
実は。
以前、呉智英が指摘していたのだが,例えば、スーパーで食品を購入するとき、すべての人は、できるだけ新鮮なものを選ぶが、一旦選んで冷蔵庫にしまわれた食品は、購入時とは逆に、古いものから使う。
サンデル教授の言う、「危機的事態に陥った人々の利己主義的行動」とは、つまるところこのことで、その点、日本人もまったく同じなのだが,危機的状況において,日本人は、日本という社会を「一つの大きな家族」と考え、それを自分たちが家族という絆で結ばれていることの反映と考え、そのように行動しようとしているのだ。
しかし、実は,それは「勘違い」に過ぎない。
日本社会は伝統的に、「家族という絆」の薄い社会であり,それ故に――逆説的だが――「社会の危機」において、社会を家族と見なすことができるのだ。
社会、すなわちコミュニティと、家族、すなわちファミリーという単位は、本来、相対立する概念であり、哲学者のサンデル教授はそれを当然の前提としているのだが、日本人は前提としていない。
ということなのだ。
「いざ」という時、人々は、実体概念である「家族」に頼る。
それが「世界の常識」であり、大家族制度の社会の場合,それは「親戚一同」、いわゆる「一族」に及ぶが、実体概念としての「家族」を有しない日本では、「日本自体が一つの家族だ」というスローガンになる、ということなのだ。
問題は,東北大震災のために叫ばれているように見えるこの「スローガン」が,実際は,バブル崩壊後、デフレに陥った日本のとるべき道の一つとして,その「有効性」は決して実証されたわけではないが、「何をやってもダメ」な状況下、じわりじわりと人々の心理に浸透してきたものだ、ということだ。
有り体に言って,それは、「近代日本の成功に倣え」とするもので、そうである限り,絶対に成功し得ないと、私は思う。
たとえば、今、もっともはっきり人々に見えていることは、菅首相率いる民主党の無能だが,それはつまるところ、松下政経塾の無能ぶりであり、その「無能」は、近代日本の成功を追体験しようしているところにある。
そもそも、「近代日本」が「成功例」かどうかすら怪しいのにぃ、であり、曳いていえば、司馬史観の無効性にもつながるのだろうが、それはまた。