パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

誰のものでもない記憶

2011-04-24 19:13:38 | Weblog
 若い美女、二人のスタッフの協力のもと、火曜日(26日)の開始日の前に、なんとか展示を終えることができたが、いや~しんどかった。

 なんでかというと、出力センターのプロ仕様のプリンターならば、モノクロ写真の質は問題なく得られるだろうと思っていたのだが、モノクロの「クロ」は、「白黒」の「黒」にあらず、モノクロームの略なのだった。

 もちろん、そんなことはわかっていた。

 インクジェットのプリンターは使っていたし,それが、「白黒写真」でも、黄色や赤や青インクを使っていることも知っていたが、「家庭用」の一般機の場合、「白黒写真」と言ってもオーケーな仕上がりだった。

 「家庭用」でほぼオーケーなら,業務用なら、なおさら「オーケー」にちがいないと思ったのだ。

 ところが、プロ仕様の巨大な機械の場合、黄色や赤や青インクの介入がはっきり出てしまうのだ。

 要するに、「セピア調」に仕上がってしまったのだ。

 「セピア調」そのものは、私は嫌いではないし、わざわざそういう謳い文句の印画紙を使って焼いたことだって、過去にあるのだが、それとはちがう、なんというか「正直さ」、ビリージョエルの歌で言えば、私が私の写真に込めた、「オネスティ」が失われたような気が、見た瞬間、したのだ。

 5、6年前、ある出力センターで、展示用に巨大にプリントされた「モノクロ写真」を見たことがあったが、私は、「これくらいなら大丈夫」と思ったのだった。

 思うにそれは、特別にプリントされたものだったかもしれないが、実際には「モノトーン」、すなわち、セピアがかっていたのかもしれない。

 でも「他人」の作品だったので、あまり切実に「見る」ことをしなかったのかもしれない。

 そう考えると、私の「白黒写真」ならぬ、「モノトーン」の写真を見る人は、それを初めて見るわけで、その「トーン」がセピア調ならそういうものとして見ることになる。

 一方、私は,私の写真を「私の正直さ」というシリアスな側面に立ち入るまで、ひたすら見続けている。

 しかし、これは、「私が私の写真を一番よくわかっている」ことを意味しない。

 そんなことをあれこれ考えた末、私はこの現実を受け入れることにし、実際に会場で、額に入れた形でセットして見たら、「まあまあ」だった。

 実は,今月発売の「アサヒカメラ」と「日本カメラ」に「風に吹かれて」の書評が載っているのだが、中に、写真家ホンマタカシがホスト役となってゲストと対談する「今日の写真2011」というコーナーがあり、今号は、堀江敏行という芥川賞作家がゲストだったのだが、そこで、「風に吹かれて」が取り上げられていた。

 編集部さん、ありがとうというところだが、そこで、こんな会話を二人が交わしていた。

 ホンマ 写真は記憶を呼び覚ます装置だという表現が『不完全なレンズで』(堀江敏行氏の著書)にありましたが、そういう感じはしますか?

 堀江 しますね。ただ、誰のものでもない記憶のような気がします。

 ホンマ そうなんですよね。

 堀江 (略)ご本人がどう思っておられるかはわかりませんが、この人の個人的な記憶という印象を受けない。

 
 なるほど。

 もちろん、私の写真は、私にとって、「個人的な記憶」の集積とも言うべきもので、それは、「自分の正直さ」を試されていると思うほどに、強くそう思っているのだけれど、実際の「事物としての写真」は、必ずしもそういうものではない。

 「写真」は、そんな「個人的な思い」には、縛られない。(「カメラはそういうもの」とホンマ氏は、続けて語っている)

 実際、最近出版された、「故郷+〈故郷〉」という、柳本尚規、柳本史歩親子の共作の写真集があって、それに柳本尚規氏がその「故郷」と〈故郷〉を、「私の故郷である北海道を、誰のものでもある〈故郷〉」にするという意味であると説明し、「カメラという装置によって、それは可能になる」と書いている。

 要するに、私の写真に記録された、堀江氏曰く「誰のものでもない記憶」は、「誰のものでもある記憶」なのだ。

 と、セピア調に仕上がった写真を前に、「まあまあ」と思った理由として我田引水することで、今回は終わることにしよう。