パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

ありがとうございます

2011-04-29 14:48:59 | Weblog
 今週の火曜日から個展「風に吹かれて」を開催中。

 初日には打ち上げ的なことをやったり、なんやかやで、ブログの更新ができなかった。

 今日は,「ogumag」の楽屋でお客さん待ちの間、パソコンを開いている。

 最初のお客さんは、写真家の田中長徳さんだった。

 その長徳さん曰く、私の写真のよさは、その「緩さ」にある、ということだった。

 その数時間後、やらされた「作者挨拶」で、私は、当日会場にふらっとやってきた、まったく見ず知らずの近所のおっさんが、「なんだか懐かしいねえ」と言ってくれたことを例に、前回のブログで書いた、「誰のものでもない記憶」は「誰のものでもある記憶」であるということを言った。

 自分の故郷ではない写真を見て、「懐かしい」と思うことはそういうことであろうし、そう思ってもらえることは私の本望である…みたいなことを喋ったのだったが、同じことを写真に即して言えば、「写真表現としての緩さ」ということになるだろう。

 「写真表現としての緩さ」が、個別の記憶と他の記憶の境をなくし、「誰のものである記憶」にしてしまうのだ。

 これに対し写真家の石内都は、後で、「それは言い訳に聞こえるよ」と言った。

 その後、突っ込んで話をしたわけではないので、その大意は今ひとつ不明だが、要するに、私の意に反してセピア調に仕上がってしまったことを、私の写真の「緩さ」と整合的であるみたいに私が説明したことに、「それは言い訳だ」と言ったのだったと思う。

 それで私は、「そんなことはわかってるさ」とだだっ子のように答えたのだが、その後に続けるべき言葉を私は遠慮していた。

 それは、「問題は写真そのものの善し悪しにある」の一言だが、それを言うと、「写真表現の緩さ」を云々することになって話が循環してしまう。

 もっとも私が思うに、「写真表現」とは本質的に、「目明きの開き盲」を助長するものであって、それが「緩さ」にあたるのではないかと思っているのだが。

 一日店番をしていると、実にいろいろな人が来るもので、今日来た人に名前を書いてもらったら聞き覚えがないので、「どちらでお知りになりましたか」と聞くと、朝日新聞の出版局で校閲をしており、そこで私の本の記事を読み、興味を覚えて来たのだということだった。

 いやはや、そんな「ルート」があったとはびっくりであるが、この方には本を買っていただけた。

 ありがとうございます。