パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

取り越し苦労

2010-01-07 19:59:03 | Weblog
 ウォルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」を古本屋で購入。

 これから読むところだが、パラパラと目を通したかぎり、かなり面白そう。

 しかし、「人間を幸福にしない日本というシステム」というタイトルはあまりよくない。

 ここは、原題に近く、「日本、偽りの社会」とでもしたほうがいいのではないかと思う。

 ウォルフレンが本書のキー概念としているのが、「偽りのリアリティ」という概念だが、これは要するに、旧ソ連とか、北朝鮮の国民が自分たちの住んでいる社会のシステムを最高だと、支配者たちから思わされているように、日本人も、官僚が
提出する「偽りのリアリティ」に篭絡されているというのだ。

 要するに、「偽りのリアリティ」のもとでは人間は決して本当の幸福を得ることはできない、というのが「人間を幸福にしない日本というシステム」というタイトルの真意なわけだが、誰だって、タイトルを見ただけでは、「嫌味なことを言うなあ」と思うだけだろう。

 この「偽りのリアリティ」を、最も大きくくくれば、「文化」ということになっり、日本人ばかりでなく、世界中のほとんどの人が、自分が属する文化を信じ、それにしたがっているわけだが、もちろんそれは絶対的なものではない。

 他の社会に行けば、他の文化がある。

 ところが、最近の日本人は、それを知った上で、あえて自国文化にこだわろうとしているように見える。

 結果、非常に独善的になってはいないか。

 このことに関係あるかないかわからないが、韓国の少年少女たちが、酷寒の中で訓練を受けているニュースを見た。

 多分、日本以上に厳しいと言われる受験競争に備えてなのだろうが、質問に答える彼ら彼女らの言葉が、「とても貴重な経験だった」とか、「何にでも耐えられる自信がついた」とか、型通りに答えているのだが、型通りのことを型通りに答えること、それ自体がひとつのメッセージたり得ている。

 もちろん、日本人も彼らのように、如才なく振舞えというわけではないのだが、数年前まで、日本人が海外旅行先で事件化何かにあって、インタビューを受けている映像なんかを見ると、非常に独特の、なんというか、「物静かなたたずまい」のようなものがあって、なるほどなあ、と思ったことが何度もあったのだが、最近の「自国文化称揚主義」というか、そんな風潮がかつての美徳を失わせてはいまいか、なんて取り越し苦労をしたりする新年早々なのであった。