☞ The Narrow Way Dr Steven J Lawson
8分10秒から11分15秒まで。
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遂に山上の垂訓が姿を現わした。
長い間避け続けてきた・・。
◇◇
イエスは山上の垂訓を至福の教え(the Beatudes)から始めました。
霊において貧しい者は幸いなるかな。
当時の人々が良く聞いていたことは、この世が提供できるものをすべて所有している人は幸い、この世のものに富んでいる人は幸いであるということでした。
イエスが言ったことは、これとは真逆でした。
内面において霊的破産を宣言した者、霊的に貧乏な者は幸いなるかな。
悲しむ者は幸いなるかなとイエスが言う一方で、社交的な者やよくしゃべったり、おかしな者は幸いであると世は言います。
真に幸いなる者は、自分の罪ゆえに悲しみ嘆いている者だとイエスは言います。
素直で穏やかな者は幸いなるかなとイエスは言います。
しかし世は全く逆のこと、我慢せずに手に入るものはすべて手に入れよと言います。
そして、あらゆる人々を地獄に送るのです。
世の言うこととは異なり、イエスの言うことは「素直で穏やかな者は幸いなるかな。」
義に飢え渇いている者は幸いであるとイエスは言います。
迫害されている者は幸いであるとさえ言います。
何とショッキングではないでしょうか。
さらに、あなたの義が律法学者やパリサイ人より優れていなければ、天の御国に入ることはできないと主イエスは言います。
パリサイ人の外見的な道徳や義に勝る者は、当時誰一人としていなかった。
彼らの生活様式や教会運営方法は完璧だった。
パリサイ人に勝る人はいなかった。
主イエスが置いた敷居はあまりにも高かったために、自らそれを超えて中に入り救いに至る人はいなかった。
しかし、「天におられる御父が完璧であるように、あなたも完璧であれ」ということを示すために、イエスは聴衆の足元から敷物を引き剥がし、それを彼らの耳元へと向けた。
これがまさに神が量る基準なのです。
まるでそのような物差しや天秤があるかのように、実は私たちの人生も決められているのです。
この天秤の一方の端にあなたの人生が置かれ、他方の端には溝に嵌まった酔っぱらいが置かれているのではありません。
あるいは、気まぐれな放浪者が置かれているのでもない。
このように、誰かと比較して自分を評価して、彼らよりは自分はうまくやっていると判断することは簡単です。
神は相対評価をして下さるであろうし、私は天国に受け入れられるに足るはずだ、と。
実際はどうか。
神はあなたの命を天秤の一方に置いて、そして他方に、ご自身の義なるご性質である絶対的かつ完璧な聖を置きます。
私たちは皆量りにかけられ、欠落があると判定されます。
あの日イエスは聴衆に絶望を与えました。
律法学者やパリサイ人以上に義でなければならない。
神が聖であるように、あなたがたも聖でなければならない、と。