みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#12 救いの達成:Be Holy as I Am Holy, NO.6

2023年08月10日 | 救いの達成

Be Holy as I Am Holy: Fear and Trembling with R.C. Sproul

19分46秒から22分44秒まで。

◇◇

祭司が山羊の上に手を置くという動作の象徴的意味とは、民の罪、民の咎を取り去り、それを山羊の背中に移すということ。

そして、山羊は野営の外、すなわち神の臨在が満ちている所の外、外の暗闇、見捨てられた領域へと連れていかれる。

神が人の罪、咎、汚れた唇を取り除いた時、キリストに起きたことがこれです。

イザヤのように神に向かって叫ぶとき、神はその叫びをキリストの上へと置くのです。

神がそれを行なったまさにその時、何が起きたか。

光が消えて闇となった。

キリストはエルサレムの外、野営の外で処刑された。

主イエスは生贄となった。

しかしながら、イエスは、神の要求を満足させる子羊でもあった。

非のない子羊、その唇は汚れていなかったが、神へと捧げられた。

私たちが受けるべき刑罰を払い、ご自身が受けるべき義を私たちへと譲渡した。

故に、クリスチャンライフは赦しから始まるのです。

それは義をもって始まります。

義において起こることというのは次のようなこと。

聖ではない(unholy)私たちが、義ではない(unjust)私たちが、神によって義と宣言される。

ダビデがその疑問を発した時のことを覚えているだろうか。

ダビデは言った、「もし神が不正を弾劾するなら、誰が堪えることができようか」と。

もしも神が学生に関するブラックリストを手に取り、神の法に違反する度、神に逆らう度にそのリストに詳細が記され、それに基づいて神があなたがたを裁くとすれば、一体どうなるでしょうか。

「もし神が不正を弾劾するなら、誰が堪えることができようか」と、ダビデは言いました。

それはいささか修辞的な疑問であります。

もちろん、その答えは「否、誰も耐えることはできない。」

誰も耐えることはできません。

聖ではない人間が、聖なる神の御前で裁きを受け、耐え忍ぶことができるでしょうか。

人の不聖が洗い清められるなら、人の不聖が取り除かれるのなら、人の不聖が覆い隠されるのなら、それが神の裁きを堪え忍ぶことのできる唯一の方法です。

それがまさに贖い。

つまり、キリストの聖が持っていない私たちに分け与えられるということ。

それによって、キリストが私たちを神と和解させ、キリストが神の御前で私たちを義とさせるのです。

そして、キリストは言います、「恐れおののいて実行に移し、この救いを達成せよ」と。

ピリピ2:12
So that, my beloved, as ye always obey, not as in my presence only, but now much more in my absence, with fear and trembling your own salvation work out,
(YLT)