R.C. Sproul: Post-Christian Christianity
訳出時間枠:17分29秒から22分24秒まで
ここまでが前置き。
ようやくnarrowとbroadということばが登場した。 Sproul師が語ってきた無神論哲学史を踏まえつつ、聖書テキストにおいて使われているnarrowとbroad (gate)の意味を正しく理解したい。無神論世俗主義にもnarrowとbroad (mindedness)があるのと同様にクリスチャンの世界にも、ということ。
◇◇
その揺り動かすことができない2つの事のために、カントは悩み、不穏な日が続いたのです。
彼に付きまとっていた2つの事とは、頭上に輝く星空と内在する道徳律でありました。
断定的絶対性に関する自身の有名な研究と、後に執筆する実践理性批判という自書において、天上には何も存在しないこと、根本的に道徳原理に関する規範は存在しないということが分かったとカントは示唆しています。
もし神が存在しないとするならば、何でも許されてしまうだろうとドストエフスキーは述べています。
しかし、神は、そのような内在する道徳律に対する忘れがたい感覚を捨て去るようなことはなさらない。
或いは、物理学者として、頭上に輝く星空という驚愕すべき衝撃と飾りつけられたように見える絶妙な装飾をも神は捨て去ることはしません。
しかし、哲学史を追いかけてみると分かるように、ある思想学派がある問題を解くと、新しい学派が隆盛し、新しい問題が次の哲学学派によって解かれ、その学派は解決されない例外を残し、そしてまた、次の学区が現れて、それを改善していく。
しかし、カントが登場して、その進化樹のようなものをひっくり返してしまいました。
そして、哲学の全系統が生み出されたのです。
そこには、マルクス主義、ヒューマニズム、論理的実証主義、実存主義、相対主義、多元論が含まれます。
それらはみな世俗主義であり、異なる主義主張であり、異なる特徴を持ち、どれも他の主義主張から派生しているのです。
しかし、それらはみな一つのことを共有しています。
その共通点とは、超自然、つまり神の存在に関して猜疑的であるということであります。
すなわち、それらはみな、物質的自然論において明確化される現象学という共通の前提を分かち合っているのです。
そのことに関しては、モーラー博士とマイアー博士が見事に検証してくれました。
要点とはこうです。
もしも、この均衡状態から神を取り除いてしまうと、究極的真理へと至る方法を失ってしまいます。
この場所、そして今現在にのみ満足しなければならないのです。
真理はあると言うが、真理はありません。
目的はあると言うが、目的はありません。
実在はあると言うが、実体はありません。
人間と言うが、人間性はありません。
そうなってしまうのです。
その結果、現れてきたのがある種の相対主義でした。
西洋における神学思想史上、無神論が蔓延るあらゆる時代において、無神論は相対主義へと至り、双子である多元論へと流れていきました。
絶対的真理が存在せず、すべての真理が相対的であれば、すべての真理は等しく有効であるか、または無効であります。
故に、多元論とは、真理のない哲学なのであります。
多元的な真理はあります。
しかしながら、排他的真理を主張できる権利を有する人は存在しません。
排他的に真理を主張することは、最も酷い政治的過ちを犯しています。
すなわち、狭い心(narrow-mindedness)なのです。
対して、相対主義と多元論の最上の価値とは、広い心(broad-mindedness)であります。
訳出時間枠:17分29秒から22分24秒まで
ここまでが前置き。
ようやくnarrowとbroadということばが登場した。 Sproul師が語ってきた無神論哲学史を踏まえつつ、聖書テキストにおいて使われているnarrowとbroad (gate)の意味を正しく理解したい。無神論世俗主義にもnarrowとbroad (mindedness)があるのと同様にクリスチャンの世界にも、ということ。
◇◇
その揺り動かすことができない2つの事のために、カントは悩み、不穏な日が続いたのです。
彼に付きまとっていた2つの事とは、頭上に輝く星空と内在する道徳律でありました。
断定的絶対性に関する自身の有名な研究と、後に執筆する実践理性批判という自書において、天上には何も存在しないこと、根本的に道徳原理に関する規範は存在しないということが分かったとカントは示唆しています。
もし神が存在しないとするならば、何でも許されてしまうだろうとドストエフスキーは述べています。
しかし、神は、そのような内在する道徳律に対する忘れがたい感覚を捨て去るようなことはなさらない。
或いは、物理学者として、頭上に輝く星空という驚愕すべき衝撃と飾りつけられたように見える絶妙な装飾をも神は捨て去ることはしません。
しかし、哲学史を追いかけてみると分かるように、ある思想学派がある問題を解くと、新しい学派が隆盛し、新しい問題が次の哲学学派によって解かれ、その学派は解決されない例外を残し、そしてまた、次の学区が現れて、それを改善していく。
しかし、カントが登場して、その進化樹のようなものをひっくり返してしまいました。
そして、哲学の全系統が生み出されたのです。
そこには、マルクス主義、ヒューマニズム、論理的実証主義、実存主義、相対主義、多元論が含まれます。
それらはみな世俗主義であり、異なる主義主張であり、異なる特徴を持ち、どれも他の主義主張から派生しているのです。
しかし、それらはみな一つのことを共有しています。
その共通点とは、超自然、つまり神の存在に関して猜疑的であるということであります。
すなわち、それらはみな、物質的自然論において明確化される現象学という共通の前提を分かち合っているのです。
そのことに関しては、モーラー博士とマイアー博士が見事に検証してくれました。
要点とはこうです。
もしも、この均衡状態から神を取り除いてしまうと、究極的真理へと至る方法を失ってしまいます。
この場所、そして今現在にのみ満足しなければならないのです。
真理はあると言うが、真理はありません。
目的はあると言うが、目的はありません。
実在はあると言うが、実体はありません。
人間と言うが、人間性はありません。
そうなってしまうのです。
その結果、現れてきたのがある種の相対主義でした。
西洋における神学思想史上、無神論が蔓延るあらゆる時代において、無神論は相対主義へと至り、双子である多元論へと流れていきました。
絶対的真理が存在せず、すべての真理が相対的であれば、すべての真理は等しく有効であるか、または無効であります。
故に、多元論とは、真理のない哲学なのであります。
多元的な真理はあります。
しかしながら、排他的真理を主張できる権利を有する人は存在しません。
排他的に真理を主張することは、最も酷い政治的過ちを犯しています。
すなわち、狭い心(narrow-mindedness)なのです。
対して、相対主義と多元論の最上の価値とは、広い心(broad-mindedness)であります。