みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#56 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月27日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:7分50秒から11分20秒
全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ続き)

もう一人の友人、ノーマン・ガイスラーも証拠主義者であります。

証拠主義者である彼らは、感覚や視覚、味覚、触覚、嗅覚、これらすべてを駆使することにより、主なキリスト教真理、すなわち、神の存在や神のことばとしての聖書の権威について高水準の確信に到達しうる、と信じています。

しかし、私たちの知覚に基づいている議論に関して、周囲の状況を感知する私たちの知覚は完ぺきではないので、そのような議論には常に限界があるのです。

その限界ゆえに、彼ら証拠主義者は100%の確信に到達することはあり得ないのです。

さて、モンゴメリーやガイスラーは、キリスト教真理に関して、経験的探究がもたらす確信の程度は極めて高いレベルにあると確信していたようです。

これは、疑惑の影を超えて証言するのではなく、理性的な疑いを超えて証言するために告発が必要となる裁判のようなものです。
(*文意がよく分からない。分からなくても以下の理解に影響はないようです)

適切な評決に至るための証拠が、理知的な人々を説得させるのです。

確かに、証拠は真実であると思います。旧約聖書のみならず新約聖書も経験的なデータを主張しています。

ペテロが宣言していることは、慎重に練られた作り話や神話ではありません。

彼が宣言するのは、私たちが自分の眼で見たことであり、自分の耳で聞いたことであります。

それは経験的データであり、キリスト教真理に関する使徒証言として極めて重要であります。

しかし、オーガスティンはそれをさらに超えていきたいと願ったのです。

私もそうです。

特に、神の存在という中心的な課題において超えていきたいと願った。

中世において、多くの大学で、キリスト教と世俗の科学の間に、いわゆる古典的統合というものがありました。

古典的統合というのは、すべての学問は神が存在するという仮定の下でなされなければならない、というものでした。

オーガスティン、アンゼルム、アキナスといった哲学者は自分たちの知力を駆使して、天文学的、目的論的、そして存在論的議論を通して、神の存在という概念を明快に論証したため、自分がかわいい学者は声高に有神論に対抗することはできませんでした。

もちろん、隠れ無神論者はいましたが、無神論は、古典的統合ゆえに知的世界においてあまり重んじられることはありませんでした。