みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#54 終末預言 by R.C. Sproul

2022年02月23日 | 終末預言 
Defending the Faith

配信第1回:2分40秒から5分38秒まで

全文の日本語訳を提示する。

(メッセージ開始)

この2つははっきりと区別できるのだが、オーガスチンにとって、それらを区別する必要はありませんでした。

理性と信仰はいわゆる互いに共生関係にあるとオーガスティンは述べています。

ある意味において、私たちは暫定的な形で信仰を開始するのではないでしょうか。

神の声を聞いた時、私たちが理解できる範囲においてそれを信じ、知ることができる範囲においてそれを信じる。

しかし、その信仰は弱くて、いわゆる知的確信を生むことはない。

しかし、同時に、信仰というものが道理という暫定的な抱擁のようなものであるように、その信仰が不合理なものとして一蹴されることはありません。

真の聖書的信仰は、私たちが知る過程の中に創造主が植えつけた理性(神の部分としての理性)に依存しているのです。

この点において、オーガスチンは、私たちが信仰と軽信との間において常に知っておくべき明白な違いがあると述べています。

軽信には強固な理性的土台がありません。

それは根拠がありません。

理性と正反対なのが信仰であると教える実存主義哲学者によって口説かれて持つような類のものが軽信です。

クリスチャンである私たちは、イエスの御腕が私たちを破滅と破壊から守って下さることを期待しつつ暗闇の中へと飛び込まなければならないのです。

馬鹿げたことは信じる価値がありません。

思いが無条件に拒絶する場合、それを信じたり、それに賛同したりすることはできません。

何故なら、それは非合理的であり非論理的だからです。

そこで、オーガスチンは信仰に身を委ねた時、理性の規範、特に論理にも等しく身を委ねたのです。

アリストテレスは道理そのものは全く内容はないと言ったが、オーガスチンはそれを理解することができたのです。

確かに、論理法則の中にはデータも情報もありません。

論理ができることと言えば、私たちの考え方や思いに対する知的支配者として機能することです。

だから、私たちの思いが非合理的なカテゴリーの中に紛れ込むと、警告音が鳴り響き、論理という警察官が大きな六角形の赤信号をもってそこに立ち、「直ちに止まりなさい」と言います。