みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#424 神の法第三戒

2019年10月03日 | 神の法
第3戒
誓いと礼拝
 
p117~
Swearing and Worship
The Third Commandment
The Institutes of Biblical Law
Rousas John Rushdoony

◇◇

真理において神の御名を唱える(求める)とは、われわれの生活や行動、思考、所有、その他生活のあらゆる領域を、神と神の法の上に堅く据えることを意味する。

主の御名をみだりに唱えるということは、唯一まことの神を実質的に否定すること。

われわれの生活や行動、そしてすべての思考、所有、生活のあらゆる領域を神から切り離したり、自分のものとして独占するならば、われわれは、神の御名をみだりに唱えているだけでなく冒涜にも値する。

それゆえ、エーラーが述べたように、「偽証は、違反者だけではなく、違反者が属する種族全体に関わる問題」

偽証は、人間と社会から恵みを奪い、それらをのろいの下に置く罪である。

真の誓いとは、真の礼拝。

正しく誓う人は、御名にふさわしい栄光を神に帰している。

宣誓と、社会の基礎や革命、宗教がどのように関係しているかについて、正しく理解しない限り、なぜ古代の人々が冒涜をあれほど恐れたか理解できない。

イエスの発言に対して、大祭司は、「これは冒涜の言葉だ」といって非難した(マタイ26:65)。

大祭司の恐れは、偽善の産物であったかもしれない。

しかし、それは、普通の人間が感じる衝撃を反映している。

第二次世界大戦以前の日本において、このような恐れは、実際に、社会の中で一般的に見られた。

神道に対する冒涜は、非常に大きな罪と考えられていた。

日本人は、それを反逆、革命、無政府主義の罪と考えていた。

これは、極めて妥当な理解であったと言うべき。


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