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小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

アフォリズム2

2010-05-24 17:25:15 | 考察文
追いつめられないと人間は怠ける。

何でも他人の物の方がよく見える。

背伸びしない人は成長しない。

子は親の背中を見て育つ。

大人になるとはスレッカラされてしまうことである。

大人が最も好感を持つのは、何も考えない誠実な青年である。

自意識の強い人へ。人は他人の事など、とーでもいいと思っている。

やろうか、やるまいか迷ったらやった方がいい。

愛されなかった人は幸いである。なぜなら「愛」を描ける小説家になれるから。

現在の常識は将来、非常識になる可能性がある。

感情のまま行動すると人間はダメになる。

人間は白紙から理解に到達するのではなく、誤解から長い道のりを経て理解に至る。

つらい境遇の人は他人が想像するほど自分を不幸と思っていないことが多い。

親は一生、自分の子供は自分より賢くならないと思っている。

子供は大人より頭がいい時が多い。

軽率な人間は、恋愛を最も美しい人間のいとなみだと信じている。

物事は演繹法ではなく背理法で考えた方がいい。

出来るか出来ないが迷うより、まず三ヶ月やってみる。

何気ない軽い気持ちでの一回の体験が人生の全てになってしまうことがある。

神は二つの病気を同時には与えないことが多い。

どんな善人も状況によっては悪人になりうる。

習慣とは人間の人格を変えてしまう阿片である。

軽率な人間ほど感情のサイコロを振るのが好きである。

読書の方法。ひとまず信じて読む。その後、疑う。

多くの場合、自分の感情によって判断したことの正反対が真実である。

天才は誤りの中から真実を見つけてしまう。

限界を持たない方針の人間の精神は無限に向上しうる。

「愛」とは「神」や「天国」と同様、現実には存在しない概念である。

苦境の時、一つの事が良くなると連鎖的に他の事も良くなることがある。

世間で「愛」と言われているものの、ほとんどは「愛撫」である。

自殺を無条件に悪いと言う人は死ぬほどの苦しみを経験したことのない人である。

人は自分の信念を主張する時、感傷的に心地よさを感じていることが多い。

自殺を絶対してはいけないという人はマフィアの拷問をうければまず考えが変わる。

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アフォリズム

2010-05-21 15:19:22 | 考察文
人間的であるとは、いい加減であることである。

感情的であることが、最も美しい欺瞞的な人間性である。

幸福とは自己満足の異名である。

すごい人間のすごい所は自分がすごい人間であると思っていない事である。

幸福が相対性になるとこの世は地獄になる。

極限の選択で人間性がわかる。

己を欺く人間の笑顔はひきつる。

人は同時に二人の人間を憎むことは出来ない。

孤独な人間は陰で他人の悪口を言わない。

夢は叶ったとたん夢でなくなる。

死を笑う人間に死ぬ勇気のある者はいない。

人生に完成はない。本当の人間は未完成のまま死ぬ。

自分を否定できる人間こそが強い。

憎しみはエネルギーとして使える。

失って、はじめて、当たり前であることの有難さががわかる。

本当の自分を直視するには相当な勇気がいる。

欠点は時に素晴らしい個性であることがある。

嫌なことは別の嫌なことが起これば忘れる。

演ずることは己を守る鎖帷子である。

人間は悪から善の滋養を得ている。

知性的であることは無味乾燥に見える真の人間性である。

結婚とは女を幸せにすることである。

死を宣告されて、はじめて人間は己を欺いていたのに気づく。

偽善者、下心のあるヤツほど妙に馴れ馴れしく笑いかけてくる。

いじめられない方法は莫迦を装うことである。

この世の中で一番わからない人間。それは自分である。

死ぬまで責任を持つ気がないなら子供は産むな。

艱難も大きすぎると汝を玉にしない。ほどほとの艱難が汝を玉にする。

それでも彼らは笑う。彼らは死ぬまでは笑う。

大切な事=悪口に悪口で言い返さないようすること。

失敗することは恥ではない。失敗をおそれて行動しない事が恥である。

押忍=「空手の挨拶は押忍である」

レンブラントの絵画同様、善は悪の中でより輝く。

今日が人生最後の日だと思え。今日が人生最後の日なのだ。

欲張りすぎるな。完全であろうとするな。100点にしようと思うな。80点を目標とせよ

敵の存在が自分の生きがいになっている人は敵の存在に感謝すべし。

ペットを可愛がるのは自分の愛情深さの心地よさに浸るためである。

人生とは、他人ではなく自分との戦いでなくてはならない。

人を見たら泥棒と思え。女を見たら(最近では男も)ナルシストと思え。毛唐を見たらホモと思え。激安車をみたら欠陥車と思え。巨乳を見たら胸パッドが入っていると思え。最近の暴走族を見たら赤信号で止まると思え。パトカーを見たら罰金をとられると思え。武田信玄を見たら影武者と思え。幽霊を見たら枯れ尾花と思え。警察官を見たら悪人と思え。チャイムが鳴ったら新聞の押し売りと思え。新聞記事をみたらウソと思え。変人を見たら哲学者と思え。検察官を見たら冤罪にされると思え。政治家を見たら嘘つきと思え。

人間40歳を過ぎたら顔は自分の責任である。だから39歳までは顔は親の責任である。親は39歳になるまで自分の産んだ子供の顔の責任を持たなくてはならない。

しかし40歳という数字は何が根拠になっているのか?

私が私に生まれ、あなたがあなたに生まれた事は単なる偶然にすぎない。単に私があなたに生まれず、あなたが私に生まれなかっただけに過ぎない。こう考えれば劣等感はなくなる。

何を考え、どう感じたかではなく、どんな行動をしたかが人間の全てである。

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あしたのコージ

2010-05-19 21:35:51 | 武道・スポーツ
体育館のトレーニング室で、6時半から、おわりの9時までトレーニングする。しんどかったけど、歯を食いしばって頑張った。

「燃えたぜ。・・・燃えつきたぜ・・・まっ白な灰に・・・」

あしたのコージ 完

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日本経済と変人

2010-05-18 18:50:51 | Weblog
全ての人がそうじゃないが、今の世の中、面白いヤツ、魅力を感じる人がほとんどいない。何をするにも全て銭勘定。(トニー谷の歌じゃないが、「恋をするのもソロバン勘定ざんす」)いかに怠けて、ラクして、儲ける事しか考えてないヤツが多すぎる。これじゃあ、日本経済が、これほどまでに崩壊寸前にガタガタになってしまったのも無理はない。行動の動機が、物質的か精神的マージン以外であるような変人が極めて少ない。
人をモデルにして小説を書きたいが、魅力のある人がいないので、なかなか書けない。小説家の食指が動かない。

今の世の中でタダで動くものは地震と浅野浩二と仙台市泉区の庄司恵美子と本田技研の一部の研究者くらいである。

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仲間由紀恵

2010-05-17 04:06:42 | Weblog
私は、ほとんど映画を見ない。活字ばっかり読んでいると、映画のような受け身のものは、見てるとまだるっこしくなってしまうのである。しかし、たまには見る。トリックという映画で、仲間由紀恵という、魅力的な人を知った。安部寛との、やりとりも面白い。彼女がピンチになって困ると、楽しくなる。トリックでは、もっと仲間由紀恵がピンチになるのを作って欲しい。女でも、ナルシズムが強すぎる子は嫌いである。また、あまりにも男を警戒しすぎている女も魅力がない。彼女は、その両方がないから、(実際の彼女は知らないが)映画での彼女は魅力的である。

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空手

2010-05-16 23:11:59 | 武道・スポーツ
合気道の後、15分くらい遅れて、空手の組織の人が来た。子供が三人体験しにきていた。組織の人は、支部長と、その娘の二人だった。

支部長「どうしたんですか。ずっと来なくて」
私  「飽きっぽいもんで。出来るものをやっても、飽きちゃうんで」

本当は、二度の体験はダメだろうと思って、行かなかったのだか、入会しなくてもいいから、私が来るのを待っていた様子で、すごく嬉しくなった。
この支部長は人がよい。穏やかな人である。支部長の娘は、小学生くらいだが、黒帯で、すごく可愛い。それで6人で練習した。女の子は、一人の男の子に挙げ受けや、外受け、などを教えた。残りの二人は支部長が教えた。私も突きの基本を教えてやった。
みぞおちの前の一点を突いて。
100回突いて、疲れたら、蹴りの練習をするようにして。
突きは、体が正面を向くようにするけど、下段払いは、体が正面ではなく、斜めを向くようにして。等々

ナイハンチ(鉄騎初段)など、とっくの昔に忘れてしまったので、女の子を見ながらやった。

しかし何といっても女の子が可愛かった。束ねた髪の毛が、子供とはいえ女っぽくて可愛い。
ああ。あの子とデートしたい。ロリコンの血が騒ぐ。

「あ、あの。お嬢さん。デートしてもらえませんか」
と言いたくなった。父親の支部長は人がいいし、空手を身につけている人に悪い人は、まずいないだろうから、父親も許可してくれるかもしれない。
彼女と二人でディズニーランドに行きたい。
しかし私はシャイなので、言えないだろう。
ともかく、次回も参加できるから、また、あの子に会える。
ディズニーランドへのドライブのデートは、妄想で楽しむだけにとどめよう。

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合気道

2010-05-16 23:11:00 | 武道・スポーツ
日曜日の夜に体育館で、ある空手の組織の練習があるので行った。去年の年末に一度、行って、体験参加したから、二度は体験参加できないだろうと思っていた。ので、それ以後、行かなかった。しかし、半年も経っているので行った。時間になっても、誰も来ない。ある合気道の組織が練習をしていた。ので見学した。体験したくなったので、申し出てもダメと言われた。どケチな組織だ。
私 「あの。ちょっと体験させてもらえませんか」
相手「他流試合ですか?」
私 「いや。私が投げられますから」
相手「ダメです」
私 「どうしてですか」
相手「・・・・」
私 「攻撃なんかしませんから」
相手「ダメです」
私 「どうしてですか。私が怪我すると問題だからですか。それは大丈夫です」
相手「とにかくダメなんです」

ドケチな組織だと思って、見学することにした。少し話した。

私 「合気道は何故、袴を履くか知っていますか?」
相手「ええ。足の動きを相手にさとられないためです」
私 「そうです。合気道は膝の動きが要で、膝の動きを相手にさとられないために袴を履いているんです」
私 「柔道は講道館で統一されていますが、合気道はどうなんですか?」
相手「合気道も色々な流派があります。塩田剛三のお弟子さん達が独立して、いくつもの流派があります」

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白痴テニススクール

2010-05-16 03:54:07 | 武道・スポーツ
テニススクールを替えて、別のテニススクールにした。しかし、ここのスクールのコーチも白痴の集まりだった。コーチもレッスン中は、必ず参加するというのは、去年の12月19日に書いた、「体裁」の心理からだろう。あるいは、コーチもテニスハイになっていて、やらなくてはいられない、という心理状態になっているのかもしれない。あるいは、どうしても、自分が指導している、という監督心や優越心を捨てられないからだろうと察する。まあ、日本のスポーツのコーチなんて、アホばかりだから、ここだけに限った事でもない。ただスキーでは、SAJにしろ、SIAにしろ、本格的に指導方法や生徒の心理などを非常に深く考えていて書物にしている。
私が驚いたのは、生徒が4人いても、コーチも試合に参加せずにはおられず、ハンデをつけるために、利き手でない左手で打つという、信じられないバカげた事をスクールのコーチの皆がやっていることである。これはアホ極まりない。ハンデをつけたいなら、手加減すればいいだけではないか。しかし、それはせず、左手で打ってネットばっかりして、試合にならない。こんなのは時間の無駄である。この心理はコーチも出来ない事をやってみたい、という心理か、コーチが生徒に負かされることを生徒に見せて、生徒を笑わせたいという心理のどちらかと、想像する。しかし利き手でない手で上手くできないのは当たり前である。現役のプロ野球の投手でも、利き手でない手で投げさせれば、草野球の選手なら十分、打てるだろう。それ以前にちゃんとストライクが投げられるかどうか疑問である。生徒は、そんなコーチのクソつまらない、くだらない漫才を見て楽しむためにテニススクールに通っているのではない。高い金を払って、人生の貴重な時間をさいて、テニスの技術を向上させ、汗水たらし、激しい運動の負荷をかけ足腰を鍛え、体力が衰えないよう、健康を維持し、それによって仕事の効率を上げ、生活をキビキビさせるためであり、真剣そのもので、取り組んでいるのである。そもそもコーチは、テニスの技術しか、頭になく、生徒も、それだれを求めてスクールに通っているのだと、勘違いしており、また、そういう価値観しか頭にないから、人格がどんどん低下して、くだらない人間になっていくのである。


「柔の道に励む真の目的は、修行で鍛えた心身をもって、世のため人のため、役立つことにある」
(日本柔道の父 加納治五郎)

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悪い方を基準にする

2010-05-16 00:50:56 | 考察文
三島由紀夫の十代書簡集は、結核で療養中の文芸部の先輩に宛てた手紙である。三島はさかんに、何が起こっても、「良くなる兆しでございましょう」と書いている。つまり、「きっと良くなりますよ」と言っているのである。これは、頭の悪い人間の思考である。相手は結核で、相手の病状はわかわず、ともかく療養中であるのだから、微熱や咳に悩まされている可能性の方が高い。ともかく相手の病状はわからないのである。しかし相手は、自分の病気が良くなるか悪くなるか分からず、自分は治るのだろうか、治らないのだろうか、と悩んでいると、まず思っていいだろう。この場合、良くなる方を基準にするのではなく、悪くなる方を基準にした発言をした方がいいのである。悪くなる方を基準にした発言ならば、失うものはない。良くなる方を基準にしてしまうと、悪くなった時、失うものが出来てしまうからである。だから、「良くなりますよ」と言うのではなく、「貴君の病、さぞ辛いことだとお察し致しております」というように、言った方がいいのである。そして、ついに、「良くなりますよ」「良くなりますよ」という手紙を出し続けて、相手は、結核が悪化して、死んでしまった。三島は、思いのかぎりを尽くして泣くほどの弔辞を書いている。これは、あまりにも滑稽なので、つい笑ってしまう。良くなるか、悪くなるか分からないものには、悪い方を基準にした発言、慰めの言葉をかける事が大切なのである。

会社で働きながら、司法試験をめざしている人が司法試験を受ける時、ほとんどの人は、「頑張ってね」と言う。これは、司法試験を受ける人に、プレッシャーになるのである。ではどう言えばいいかというと、「落ちて元々の厳しい試験だものね」と、相手に聞えるように、独り言として呟くのである。あるいは。「司法試験の倍率って、どのくらい何ですか?」と聞く。受験者は、「2~3%」とボソッと呟く。「ええー。そんなに難しいんですか」と、女子社員は、ことさら目を皿のようにして驚く。あるいは。「私なんて、とても司法試験なんて、一生かかっても受からないわ」と言う。あるいは。「見事に落ちてね。残念会してあげるから」と笑いながらの逆説のユーモアは、受験生の緊張を解く。あるいは。「落ちてもヤケになって死なないで下さいね」とユーモアを交えながら涙を流しながら言う。

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テニス上達法

2010-05-15 02:43:14 | 武道・スポーツ
テニスではボールを見てはならない。という事は、ホームページの「武道・スポーツ上達法」で書いた。もう少し付け加えておこう。では、何を見るべきか、と言ったら、これは簡単。相手の動き、スイングを絶えず全神経を集中して見つづけていなくてはならない。相手を見ないで、ボールを見てしまう弊害。グランドストロークのラリーでは。相手の打った球にどんな回転がかかっているのか、(ドライブ、フラット、スライス)相手のスイングを見ていれば、判断できる。強いドライブがかかっていると、ワンバウンドしてから、ギューンとボールがスピードを増してくる。スライスでは、ワンバウンドしてから、拍子抜けしたように、ボールが止まってしまう。ので、ともに、こちらのスイングが狂わされてしまう。しかし、相手のスイングをしっかり見ていれば、どんな回転がかかっているのか、わかるから、対処できて、打ち返せるのである。もう一つは。スピードの問題。テニスでは、相手が打ったボールのスピードが、つかみにくいのである。それは、相手の打った球は、直線的にこちらに向かってくる。これは当たり前で、打ち返すためには、ボールに近づかなくてはならないから直線的にボールを見ることになる。プレーヤーは、ボールを来るボールを直線的に見ているのである。休んで、横にいる人が横から見れば、ボールのスピードはわかる。何も真横でなくても、ボールを横向きに見れば、横向きの度合いが大きいほど、ボールのスピードはわかりやすい。だから、横で見ている観客は、打った人のスイングなど見なくても、ボールのスピードは把握できる。しかし、打ち合いをしている当事者のプレーヤーは、ボールが一直線の上下運動に見えるのである。ちょうど、重りをつけた振り子を、横からではなく、振り子が揺れる方向から見ているようなものである。ボールだけを見てしまったのでは、ボールのスピート感も正確に把握できないのである。しかし、相手のスイングを見ていれば、相手がどんな風に打ったかで、ボールのスピードが把握できるのである。だから、テニスではボールではなく、相手のスイングの動作を見つづけなくてはならないのである。では、ボールは見なくてもいいのか、と言ったら、見なくてもいいのである。目をこらして、ボールを見なくても、人間は視界にあるものは、位置感覚でとらえる事が出来るのである。そして、ボールを見るとは、位置感覚でボールをしっかりとらえなくてはならない、ということなのである。ただボールが近づいてきてきたら、ボールをしっかり見て、特に当たる瞬間だけは、しっかりボールを見ていなくてはならない。さらに、相手を見るという事は、余計な意識は消す、という効果もある。運動では、反射で対処することが大切なのであって、運動中に何か考えていたりしては、いけないのである。車の運転中に、考え事をしていたら、危険である。柔道の試合中に、観客席にいる可愛い子に気が行ってしまったのでは、相手に一本背負いで倒されてしまうのである。袋貼りをしている時に、ボクシングの事を考えていると、矢吹丈のように、袋ではなく、新聞紙で兜を織ってしまうのである。これはあらゆるスポーツ、運動にいえることである。バスケットボールのドリブルが上手くなるためには、ボールを見ないでドリブルの練習をしなくてはならない。視覚を消して、ボールの位置感覚を鍛えるためである。

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