小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

空手

2010-05-16 23:11:59 | 武道・スポーツ
合気道の後、15分くらい遅れて、空手の組織の人が来た。子供が三人体験しにきていた。組織の人は、支部長と、その娘の二人だった。

支部長「どうしたんですか。ずっと来なくて」
私  「飽きっぽいもんで。出来るものをやっても、飽きちゃうんで」

本当は、二度の体験はダメだろうと思って、行かなかったのだか、入会しなくてもいいから、私が来るのを待っていた様子で、すごく嬉しくなった。
この支部長は人がよい。穏やかな人である。支部長の娘は、小学生くらいだが、黒帯で、すごく可愛い。それで6人で練習した。女の子は、一人の男の子に挙げ受けや、外受け、などを教えた。残りの二人は支部長が教えた。私も突きの基本を教えてやった。
みぞおちの前の一点を突いて。
100回突いて、疲れたら、蹴りの練習をするようにして。
突きは、体が正面を向くようにするけど、下段払いは、体が正面ではなく、斜めを向くようにして。等々

ナイハンチ(鉄騎初段)など、とっくの昔に忘れてしまったので、女の子を見ながらやった。

しかし何といっても女の子が可愛かった。束ねた髪の毛が、子供とはいえ女っぽくて可愛い。
ああ。あの子とデートしたい。ロリコンの血が騒ぐ。

「あ、あの。お嬢さん。デートしてもらえませんか」
と言いたくなった。父親の支部長は人がいいし、空手を身につけている人に悪い人は、まずいないだろうから、父親も許可してくれるかもしれない。
彼女と二人でディズニーランドに行きたい。
しかし私はシャイなので、言えないだろう。
ともかく、次回も参加できるから、また、あの子に会える。
ディズニーランドへのドライブのデートは、妄想で楽しむだけにとどめよう。

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合気道

2010-05-16 23:11:00 | 武道・スポーツ
日曜日の夜に体育館で、ある空手の組織の練習があるので行った。去年の年末に一度、行って、体験参加したから、二度は体験参加できないだろうと思っていた。ので、それ以後、行かなかった。しかし、半年も経っているので行った。時間になっても、誰も来ない。ある合気道の組織が練習をしていた。ので見学した。体験したくなったので、申し出てもダメと言われた。どケチな組織だ。
私 「あの。ちょっと体験させてもらえませんか」
相手「他流試合ですか?」
私 「いや。私が投げられますから」
相手「ダメです」
私 「どうしてですか」
相手「・・・・」
私 「攻撃なんかしませんから」
相手「ダメです」
私 「どうしてですか。私が怪我すると問題だからですか。それは大丈夫です」
相手「とにかくダメなんです」

ドケチな組織だと思って、見学することにした。少し話した。

私 「合気道は何故、袴を履くか知っていますか?」
相手「ええ。足の動きを相手にさとられないためです」
私 「そうです。合気道は膝の動きが要で、膝の動きを相手にさとられないために袴を履いているんです」
私 「柔道は講道館で統一されていますが、合気道はどうなんですか?」
相手「合気道も色々な流派があります。塩田剛三のお弟子さん達が独立して、いくつもの流派があります」

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白痴テニススクール

2010-05-16 03:54:07 | 武道・スポーツ
テニススクールを替えて、別のテニススクールにした。しかし、ここのスクールのコーチも白痴の集まりだった。コーチもレッスン中は、必ず参加するというのは、去年の12月19日に書いた、「体裁」の心理からだろう。あるいは、コーチもテニスハイになっていて、やらなくてはいられない、という心理状態になっているのかもしれない。あるいは、どうしても、自分が指導している、という監督心や優越心を捨てられないからだろうと察する。まあ、日本のスポーツのコーチなんて、アホばかりだから、ここだけに限った事でもない。ただスキーでは、SAJにしろ、SIAにしろ、本格的に指導方法や生徒の心理などを非常に深く考えていて書物にしている。
私が驚いたのは、生徒が4人いても、コーチも試合に参加せずにはおられず、ハンデをつけるために、利き手でない左手で打つという、信じられないバカげた事をスクールのコーチの皆がやっていることである。これはアホ極まりない。ハンデをつけたいなら、手加減すればいいだけではないか。しかし、それはせず、左手で打ってネットばっかりして、試合にならない。こんなのは時間の無駄である。この心理はコーチも出来ない事をやってみたい、という心理か、コーチが生徒に負かされることを生徒に見せて、生徒を笑わせたいという心理のどちらかと、想像する。しかし利き手でない手で上手くできないのは当たり前である。現役のプロ野球の投手でも、利き手でない手で投げさせれば、草野球の選手なら十分、打てるだろう。それ以前にちゃんとストライクが投げられるかどうか疑問である。生徒は、そんなコーチのクソつまらない、くだらない漫才を見て楽しむためにテニススクールに通っているのではない。高い金を払って、人生の貴重な時間をさいて、テニスの技術を向上させ、汗水たらし、激しい運動の負荷をかけ足腰を鍛え、体力が衰えないよう、健康を維持し、それによって仕事の効率を上げ、生活をキビキビさせるためであり、真剣そのもので、取り組んでいるのである。そもそもコーチは、テニスの技術しか、頭になく、生徒も、それだれを求めてスクールに通っているのだと、勘違いしており、また、そういう価値観しか頭にないから、人格がどんどん低下して、くだらない人間になっていくのである。


「柔の道に励む真の目的は、修行で鍛えた心身をもって、世のため人のため、役立つことにある」
(日本柔道の父 加納治五郎)

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悪い方を基準にする

2010-05-16 00:50:56 | 考察文
三島由紀夫の十代書簡集は、結核で療養中の文芸部の先輩に宛てた手紙である。三島はさかんに、何が起こっても、「良くなる兆しでございましょう」と書いている。つまり、「きっと良くなりますよ」と言っているのである。これは、頭の悪い人間の思考である。相手は結核で、相手の病状はわかわず、ともかく療養中であるのだから、微熱や咳に悩まされている可能性の方が高い。ともかく相手の病状はわからないのである。しかし相手は、自分の病気が良くなるか悪くなるか分からず、自分は治るのだろうか、治らないのだろうか、と悩んでいると、まず思っていいだろう。この場合、良くなる方を基準にするのではなく、悪くなる方を基準にした発言をした方がいいのである。悪くなる方を基準にした発言ならば、失うものはない。良くなる方を基準にしてしまうと、悪くなった時、失うものが出来てしまうからである。だから、「良くなりますよ」と言うのではなく、「貴君の病、さぞ辛いことだとお察し致しております」というように、言った方がいいのである。そして、ついに、「良くなりますよ」「良くなりますよ」という手紙を出し続けて、相手は、結核が悪化して、死んでしまった。三島は、思いのかぎりを尽くして泣くほどの弔辞を書いている。これは、あまりにも滑稽なので、つい笑ってしまう。良くなるか、悪くなるか分からないものには、悪い方を基準にした発言、慰めの言葉をかける事が大切なのである。

会社で働きながら、司法試験をめざしている人が司法試験を受ける時、ほとんどの人は、「頑張ってね」と言う。これは、司法試験を受ける人に、プレッシャーになるのである。ではどう言えばいいかというと、「落ちて元々の厳しい試験だものね」と、相手に聞えるように、独り言として呟くのである。あるいは。「司法試験の倍率って、どのくらい何ですか?」と聞く。受験者は、「2~3%」とボソッと呟く。「ええー。そんなに難しいんですか」と、女子社員は、ことさら目を皿のようにして驚く。あるいは。「私なんて、とても司法試験なんて、一生かかっても受からないわ」と言う。あるいは。「見事に落ちてね。残念会してあげるから」と笑いながらの逆説のユーモアは、受験生の緊張を解く。あるいは。「落ちてもヤケになって死なないで下さいね」とユーモアを交えながら涙を流しながら言う。

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