小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

私は鳩山を支持する

2010-05-27 02:00:31 | Weblog
世間では、普天間から辺野古への基地移設の問題で、鳩山を非難しているが、私は鳩山を支持する。最初は、おぼっちゃんで、度胸も無いと思っていたが、意外に度胸がある。(礼儀正しい言葉使いをすることと、軟弱とは違う)

はじめは鳩山は何考えてんだか、さっぱりわからなかったが、沖縄に行くのも沖縄の住民の感情を逆なですることは分かりきっているのに堂々と行った。

おそらく鳩山の頭の中はアメリカとの外交の重要性が90%頭を占めており、大局に気づき、大局に気づいてしまった人間は他の事には動じなくなる。

人気を落とし党益を下げてまで、大局の重要性を重んずる政治姿勢は立派である。

福島みずほ、もそうだが小泉のような国民受けすることのみ言うヤツ、ポピュリストは、国民の支持率は高いが、それに惑わされないでもらいたいものである。9・11でブッシュの完全な手下となった、単細胞で荒削りの小泉なんか外交に関しては頭はカラッポである。そもそも外交の素人の田中真紀子を、選挙で応援してくれたお礼に外務大臣にするなんてバカげた組閣をすること自体からして頭がおかしい。

政治は、お茶の間で楽しむものでも、パフォーマンスでも、国会答弁の言い方の面白さでも、XーJAPANとやらのロックグループのファンだと言って若さをアピールするものでも、ライオンヘアーをアピールするものでもない。

音楽でも地味なクラシックは売れず、流行歌は売れる。しかし本当の音楽的価値はどっちか。



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最高の政治形態は独裁政治である

2010-05-27 01:32:48 | Weblog
さて多くの人が誤解しているのでないかと思うが一番いい政治形態とは、独裁政治である。独裁政治という言葉だけで、悪いと決めつけてしまっている人が多いのではないだろうか。それは、権力者は横暴でわがままになるからである。残念ながら権力を握った人間は性悪説におちいってしまうのである。独裁者がイエス・キリストや釈迦なら、性悪にならないから、これほどいい政治形態はない。しかしそういう人は現実にはいないから民主主義とは、やむを得ずのセカンドチョイスの最高の政治形態と言わざるを得ないのである。

日本は二大政党制にした方がいい。また議院内閣制より大統領制にした方がいい。大雑把に言うと自民党と民主党いがいの党は現実を全く見据えていない。もし社民党が政権をとったら、一ヶ月も持つまい。自分らでも空理空論であることはわかっているはず。今、日本は外国という巨大な敵と戦わなくてはならないのだから、そして、それが本当の敵であるのだから、(尊皇攘夷的)、多数の党が、党益ばかり考えて足を引っ張り合っている時ではないと、自覚して欲しいものである。そうしないと本当にトンビ(外国)に油揚げさらわれてしまう。政治家になろうと思う人は、安泰な公務員や権力欲、名誉欲という理由からではなく、日本を本当に憂う、吉田松陰や高杉晋作、坂本竜馬のような人になって欲しいが、残念ながら叩き上げ議員が少なくなり、地盤、看板、カバンを引き継げられる世襲二世議員が増えるばかりで、あまり期待できない。

大きな政府、小さな政府、という事で言えば、今は大きな政府、政府が大きく介入した政治の方が必要だと思う。新幹線を作る時でも、たとえば上越線の燕三条は、完全な失敗であるが、あらかじめ、燕三条に大きな工場を建てておけば、あの町は栄えただろう。工場が出来れば、新幹線通勤する人も出てくるし、人口が増えれは、住まい、商店街、学校、病院、なども必要になって出来てくる。今からでも遅くない。燕三条に大規模工場を建てると名乗り出た企業には助成金を与えればいいと言ってみてはどうか。それは、全ての過疎化の地域で言えることである。それに残念ながら今の日本の中小企業では、外国に勝てない。日本はアメリカや中国と違って、国土の面積、距離が小さい。それはアメリカや中国より流通において極めて有利である。これを利用しない手はない。

さて、日本を立て直すには教育の改革が必要である。そもそも日本の大学は、入ってしまったら安泰、となっているからダメなのである。そもそも若者が、なりたいものの一番が、官僚であるらしいのだから、情けない。親方日の丸で潰れず高収入、しかも、企業の便宜を計る見返りに、企業に渡り鳥の天下りが出来る、おいしい職業というのに魅せられているのだから、困ったもんである。ラクして儲けて安楽な仕事が夢というのだから、困ったもんである。まず大学に偏差値があるのは悪くないと思う。たとえエゴが動機でも、勉強とは、そもそも詰め込み勉強でなくてはならないからだ。動機にかかわらず一心に勉強するというのは努力する人だからである。ただ、大学の四年間の勉強はあまりにも無駄が多すぎる。特に、教養の二年間は無駄、きわまりない。私も教養の二年間は、法学や人類学、その他、色々一生懸命、勉強したが、教授や講師が、ボソボソ呟いているだけで、なに言ってんだか、さっぱり分からず、当然、ほとんど全部、忘れてしまった。かろうじて哲学とドイツ語の文法の少しを覚えているだけである。そして、誰も授業には出ず、試験は過去問の三日漬けで、わけもわかわす、丸暗記したものを書いて単位を取っているのだから、無駄きわまりない。それに、テストは、教授や講師の好みのポイントだけというケースが多いのだから、なおさら無駄である。大学の教養の二年は、教授や講師のお好みの授業ではなく、それは無くして、司法書士や税理士や宅建、中小企業診断士、公務員試験、トーフル、漢字検定などの、国家試験をどれだけ多く取れるか、というようにして、それを評価にした方がいいように思う。専門の二年間もそれでやってもいいと思う。やる気のある完全な証拠になるし、第一、企業に入ってリストラされても国家資格を持っていれば、失業者にはならないですむ。もちろん、専門の学問を身につけてやろうと意気込んでいるヤツには、そっちの方がいい。大学の教育に選択肢を与えて、生徒にどっちかを取らせるようにしてはどうか。しかし、そしたらそれは大学と呼べなくなる。しかし、それなら大学ではなく、何らかの別の言葉に変えればいいだけである。



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