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小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

法律

2014-06-20 23:34:18 | Weblog
法治国家における法律というものは、それを絶対、守って生活しなくてはならない、というものではない。なぜなら、世の中には、おかしな法律がいっぱいあるからだ。

法律とは、いざ、もめごとが起こって、裁判にまでなった時、(民事でも刑事でも)正否、量刑の程度を決める時の根拠として存在しているのである。

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愛と誠

2014-06-20 06:57:46 | Weblog
武井咲と妻夫木聡で、「愛と誠」のミュージカルのような映画が出来た。「愛と誠」は、原作の漫画が優れ過ぎているので、安直に、下手なドラマや映画にして欲しくない、と私は思っている。が、この、武井咲と妻夫木聡のミュージカル的映画は、結構いい。二人は、「愛と誠」の話がよく分からない、と記者会見で語っている。無理もない。なので私が解説しよう。私は、梶原一騎の漫画は、ほとんど全部、持っている。そして私は、梶原一騎の漫画の意味を完全に理解している、という自負がある。梶原は、「愛と誠」の前に、「夕やけ番長」を書いている。これは、「愛と誠」とストーリーの作り方で共通する点が多い。また、かざま鋭二の絵で、「朝日の恋人」という初の恋愛路線物を書いている。「夕やけ番長」は大成功だか、「朝日の恋人」は、あまり成功とは、言えない。「愛と誠」は、矛盾がいくらでも、あるから、よくわからない話と、とらえられてしまう。のだが、大切なのは、梶原一騎が表現したかったこと、を味わえばいいのである。わからなくても、太賀誠のド迫力の根性に圧倒されれば、それで、いいのである。
早乙女愛は、太賀誠の人生を傷つけ、狂わしてしまい、グレさせてしまい、その償いのために一生、命をかける、というストーリーを梶原一騎は書きたかったのである。しかし早乙女愛のような、誠実な女性が一人の人間の人生を狂わしてしまう、というストーリーは、極めて作りにくいのである。なのでストーリーに無理がある。太賀誠は、スキー場で命をかけて早乙女愛の命を救う。その代り、眉間に傷をつけてしまう。しかし、それだけなら、たいした問題は起こらなかった。早乙女愛は、全く悪くはない。悪いのは、傷に破傷風の感染があるのを見落とした医者の責任である。そして、一年間、太賀誠は、留年したが、留年したことを、ばかにして囃し立てた同級生の生徒達が悪いのである。そして、グレン隊とケンカして、山小屋の家を燃やされてしまったのは、グレン隊とケンカした太賀誠が悪いのである。太賀誠の父親と母親は、不和になって、離婚してしまうが、それは、離婚した太賀誠の父親と母親が悪いのである。早乙女愛は、何ら悪くはない。しかし、そうしてしまうと、お話しが作れなくなってしまう。なので、それらは早乙女愛の責任ということに、しているのである。そして、太賀誠は、「他人から理由のない借りを作らない。いかなる権力にも頭を下げない」ことをモットーとしている誇り高い人間なのである。では、なぜ、早乙女家から、学費と生活費の援助を受け、青葉台学園に入ったか。それは、太賀誠は、早乙女愛に、大きな貸し、があるからである。そして、早乙女愛が喫茶店でアルバイトしていたことを、早乙女愛の母親につきつけて、作戦的に、早乙女家と、取り引きしている。のである。だから、太賀誠は、誇りを無くして、早乙女家に依存しているのではない、のである。ここら辺のことは、一般の人では、わからないと思う。梶原一騎、自身、10年に一人出るか、出ないか、というくらいの、太賀誠に近いくらいの、誇り高い人間なのである。なんせ、当時の国民的英雄で、年上の力道山を「リキさん」と対等に呼び、さらには力道山物語を書くにあたって、力道山を脅迫したほどの、凄い男なのである。梶原一騎は完全に太賀誠と一致しているわけではないが、梶原一騎にとって太賀誠は男の理想像なのである。私は天才なので、他にも、梶原一騎や、梶原一騎の漫画のことは、全て説明できるが、またの機会に書く。

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テニスコーチのバカさ加減

2014-06-20 06:33:11 | 武道・スポーツ
テニスコーチのバカさ加減。テニスコーチは、生徒とラリーした後、二言、三言、技術のアドバイス、というか、注意をする。これは、バカの極北である。この世の中、すべて「生兵法は怪我のもと」であり、徹底的に、運動の理論を研究した人か、直観力が優れていて、物事の本質的なことが、わかる人なら、アドバイスしても、よかろう。しかし、やる気がなく、ろくに運動の上達理論を学びもしない人のアドバイスというか注意は、百害あって一利なし、なのである。バカなコーチの注意は無視することが大切なのである。そもそも、出来上がってしまった技の、モデルチェンジというのは、南郷継正氏によれば、「不可能」なのである。(私は、南郷氏の、モデルチェンジ不可能論には異議を持っているが)健康やアンチエイジングのため、運動している人にとっては、毎回、毎回、同じことを注意されたら、嫌になってしまうだろう。(運動は健康にいいのである。し、私は、個人的には、運動とは、生活、人生を充実させるための肉体の手入れという手段だと思っているのだが)健康や美容、アンチエイジングのためにテニスをしている人も多いだろうが、毎回、毎回、同じ技術的なことを注意され、それで、やめていく人も多い。これは、バカなコーチが、何か、生徒に、アドバイスしなけば、自分がコーチではないような気分になるから、しているのである。
それと、生徒が他の生徒に、ボールを当ててしまった時や怪我をさせてしまった時、コーチは、「謝って下さい」とデカい面で平気で言う。これも、全くおかしい。練習や試合中に、不可抗力のアクシデントが起こるのは、スポーツでは、当たり前のことである。そういうアクシデントは、誰の責任かというと、そこは、スクールが、入会の時、文章にせす、あやふやにしているが、入会金と月謝をとっているのだから、「レッスン中の怪我はスクールの責任」と、解釈するのが、妥当である。だから、レッスン中に、怪我が起ったら、生徒ではなく、スクールが、「申し訳ありません」と謝罪すべき、なのである。生徒は入会金を払っていて怪我やアクシデントの責任は、入会金によって担保されているのである。入会金は、怪我やアクシデントの保険料なのである。こんなことも、バカなコーチどもは、わからないのである。コーチには、テニスを指導する責任と、怪我やアクシデントが起こらないように、監督する責任の両方があるのである。しかしバカなコーチどもは、前者だけしか頭になく、後者は、頭にないのである。しかし本当に大切なのは、後者の責任の方なのである。小学校や中学校のスポーツ部の部長は、練習の時、生徒を監督、指導しているが、怪我が起らないように、ということを一番に考えている。それは、万一、怪我が起った時、監督義務を怠ったとして、生徒の親に訴えられるからである。技術の指導は二の次である。コーチの役割は、それで良く、また、それで、あるべきなのである。テニススクールでは、ここら辺がいい加減で、テニススクールの生徒は、学校の部活と違って、自分の意志で金を払って入って来たのだから、生徒に怪我やアクシデントの責任がある、というような感覚に陥ってしまっているのである。
球出しの練習も全く無意味であり、コーチの権威志向のもったいづけ、でしかない。球出しのボールは死んだボールであるから、それを打っても全く技術は向上しない。
ある二人が、二時間、レンタルコートを借りたら、何をするであろうか。それを考えてみれば、すぐわかる。二人でロングラリーをするか、試合をするか、である。二時間、金を払って、コートを借りて、球出しの練習をする人など、いやしない。そういう人がいたら教えて欲しい。ものである。
コーチは教える人間、先生であり、生徒は、先生に教わらなくては、技術が上達しない、とバカなコーチどもは思っているのであるが。コーチに教わらなくてトップアスリートになったスポーツ選手は無限にいる。かく言う私も、空手も水泳も誰にも教わっていない独学だが、技術のレベルはともに達人である。
コーチは技術至上主義で、人間として視野が狭くなっており、自分がテニスを出来るだけの、バカばかりである。


極真カラテでは、「練習中の怪我は全て自己責任であり、道場に対して一切の、不服申し立てをしません」、というような内容の文書にサインさせている。極めて、つめたいようだが、責任の所在を明確にしている、という点で、良いことである。しかし感情的には、冷たさを感じるのは当然である。テニススクールや他のスポーツクラブでは、無意識の感情論に落ちてしまっていて、そこら辺をいい加減にしているのである。人間として直視すべきものを直視していないのである。空手は、格闘スポーツであり、怪我が起りやすく、テニスは、格闘スポーツではないから、怪我は、起こりにくい、などというのは、全く理屈になっていない。どんなスポーツでも、怪我は起こりうるものである。こういう風に、物事をいい加減にする連中は何事も、いい加減なのである。テニスコーチは全て、いい加減人間なのである。


ある事を教える場合、たとえ、それが正しい事であっても、生徒の上達発展段階のある時点で、それを強要することによって、生徒が消化不良を起こすことは、よくあることであり、それを強要することは間違った教えなのである。
わかりやすく言えば・・・たとえば数学に於いて。相対性理論は真理である。しかし、小学生に相対性理論を教えることは間違った行為なのである。小学生には、足し算、引き算、掛け算、割り算、という概念から、教えなくてはならないのである。

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