人間の行動は、基本的に、全て、自分の利益、自分の幸福追求のため、という動機からである。
自分を犠牲にして他人のため、という行動は、(極めて少ないが)あることもある。しかし、「自分を犠牲にして他人のため」、と見える行為も、その精神まで含めて、詳しく突き詰めて見ると、結局は、「自分のため」である場合がほとんど、である。極論を言えば、「人間は自分のためにしか行動しない」と言っても過言ではない。
かく言う私自身を振り返ってみても、私が今まで、「自分を犠牲にした他人のため」の行動をしたことがあるか、というと、全く思いつかない。確かに、一見、「自分を犠牲にした他人のため」のように見える行動は、いくらでも思いつける。しかし、それらは、「私の良心や信念、誇り、のため」の行動であったりする。たとえ、やりたくない嫌なことをする時でも、それをしないと、自分が不利になるから、嫌なことをするのであって、突き詰めれば、結局は、自分の利益のための行動である。
たとえば。「愛と誠」で。太賀誠が自分の命の危険をかえりみず、早乙女愛を救ったのも、太賀誠にしてみれば、男の誇りを守るためであり。
特攻隊においては。色々な理由があるだろうが。一番、大きなものは。特攻に出撃せず、皆に陰で、非国民とか腰抜けと言われたり、思われたりされながら生きる精神的苦痛の方が、非国民と皆に言われずに死ぬ精神的苦痛より、はるかに大きかったからで、より苦痛の少ない方を選んだ、と言える。
自分を犠牲にして他人のため、という行動は、(極めて少ないが)あることもある。しかし、「自分を犠牲にして他人のため」、と見える行為も、その精神まで含めて、詳しく突き詰めて見ると、結局は、「自分のため」である場合がほとんど、である。極論を言えば、「人間は自分のためにしか行動しない」と言っても過言ではない。
かく言う私自身を振り返ってみても、私が今まで、「自分を犠牲にした他人のため」の行動をしたことがあるか、というと、全く思いつかない。確かに、一見、「自分を犠牲にした他人のため」のように見える行動は、いくらでも思いつける。しかし、それらは、「私の良心や信念、誇り、のため」の行動であったりする。たとえ、やりたくない嫌なことをする時でも、それをしないと、自分が不利になるから、嫌なことをするのであって、突き詰めれば、結局は、自分の利益のための行動である。
たとえば。「愛と誠」で。太賀誠が自分の命の危険をかえりみず、早乙女愛を救ったのも、太賀誠にしてみれば、男の誇りを守るためであり。
特攻隊においては。色々な理由があるだろうが。一番、大きなものは。特攻に出撃せず、皆に陰で、非国民とか腰抜けと言われたり、思われたりされながら生きる精神的苦痛の方が、非国民と皆に言われずに死ぬ精神的苦痛より、はるかに大きかったからで、より苦痛の少ない方を選んだ、と言える。