「日本のスポーツ選手は一つのスポーツだけしか出来ない」
これは日本に限らず、世界中、全てでそうである。野球選手は野球だけ。サッカー選手はサッカーだけ。しか出来ない。陸上の、桐生祥秀選手にしても、100m走しか出来ない。スポーツの専門分化である。そして勝利至上主義から怪我をしてもやりつづける。バカな国民とバカなスポーツ選手の双方が、こういう事態を作り上げてしまったのである。それは、国民が、日本一、だの、世界一だの、だけにこだわるからである。それしか、そして、それだけしか価値がないように思っているからである。だから100m走で、記録を出そうとしたら、筋肉、肉体、スキル、トレーニング、全てに於いて、100m走だけに適した筋肉だけを鍛えようとしか、しないから、そして、各スポーツでは、そのスポーツにとって必要な筋肉というものがあり、それだけを鍛えることしかしないから、それ以外のスポーツは出来ないのである。プロ野球選手で趣味でゴルフをしている人は多い。しかし、遊び感覚であって、真剣に取り組もうとしないから、たいして上手くはなれない。プロ野球選手で、プロゴルファーになっても通用するという人などいない。
そして、多くのスポーツ選手は、子供の頃から一つのスポーツを経験論的(頭を使わず)に、練習して、気づいてみたら、上手くなっていた、というプロセスをたどるから、頭の悪い人間が多い。スポーツがどうして上達するか、スランプにはどうやって克服すけばいいか、などは全くわからないだろう。物を考えないからである。私には、極めてバカバカしいとしか思えない。
スポーツ選手は、引退したら、あとは、金メダルだの、過去の栄光にひたるだけの、おまけ人生である。人類に、何物の文化遺産を残すこともない。し、頭が悪いから、残せない。
ただ古田敦也氏のような、スポーツを分析しようとするクセのある人は、スポーツの原理の解明という文化遺産を後世に残すことが出来る。しかし氏のような才能のある人は極めて少ない。
「また葉隠が口をきわめて、芸能に秀でた人間をののしる裏には、時代が芸能に秀でた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの傀儡(あやつり人形、ロボット)となるところに、時代の理想像が描かれている。現代は芸能人の時代である。一芸に秀でた者は、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクションに自らをおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると葉隠の芸能人に対する侮蔑は胸がすくようである」
(三島由紀夫)
これは日本に限らず、世界中、全てでそうである。野球選手は野球だけ。サッカー選手はサッカーだけ。しか出来ない。陸上の、桐生祥秀選手にしても、100m走しか出来ない。スポーツの専門分化である。そして勝利至上主義から怪我をしてもやりつづける。バカな国民とバカなスポーツ選手の双方が、こういう事態を作り上げてしまったのである。それは、国民が、日本一、だの、世界一だの、だけにこだわるからである。それしか、そして、それだけしか価値がないように思っているからである。だから100m走で、記録を出そうとしたら、筋肉、肉体、スキル、トレーニング、全てに於いて、100m走だけに適した筋肉だけを鍛えようとしか、しないから、そして、各スポーツでは、そのスポーツにとって必要な筋肉というものがあり、それだけを鍛えることしかしないから、それ以外のスポーツは出来ないのである。プロ野球選手で趣味でゴルフをしている人は多い。しかし、遊び感覚であって、真剣に取り組もうとしないから、たいして上手くはなれない。プロ野球選手で、プロゴルファーになっても通用するという人などいない。
そして、多くのスポーツ選手は、子供の頃から一つのスポーツを経験論的(頭を使わず)に、練習して、気づいてみたら、上手くなっていた、というプロセスをたどるから、頭の悪い人間が多い。スポーツがどうして上達するか、スランプにはどうやって克服すけばいいか、などは全くわからないだろう。物を考えないからである。私には、極めてバカバカしいとしか思えない。
スポーツ選手は、引退したら、あとは、金メダルだの、過去の栄光にひたるだけの、おまけ人生である。人類に、何物の文化遺産を残すこともない。し、頭が悪いから、残せない。
ただ古田敦也氏のような、スポーツを分析しようとするクセのある人は、スポーツの原理の解明という文化遺産を後世に残すことが出来る。しかし氏のような才能のある人は極めて少ない。
「また葉隠が口をきわめて、芸能に秀でた人間をののしる裏には、時代が芸能に秀でた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの傀儡(あやつり人形、ロボット)となるところに、時代の理想像が描かれている。現代は芸能人の時代である。一芸に秀でた者は、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクションに自らをおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると葉隠の芸能人に対する侮蔑は胸がすくようである」
(三島由紀夫)