小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

自由学園

2008-10-28 17:22:00 | 考察文
自由学園

母校について考えてみたい。基本的に私は母校が嫌いだった。今でも嫌いである。創立者の思想も、現状も嫌いである。母校の自由学園はジャーナリストで思想家の羽仁もと子、羽仁吉一夫婦がつくった学校だが、人間を自分の思想のような人間に教育してつくりたいなんて傲慢な考えだ。人間を自分の思想の鋳型にはめるなんて僭越きわまりない考えだ。たとえそれがどんなにいい思想であっても。共産主義とはそういう思想である。実際、学校は共産主義的である。
創立者には偏見も多い。創立者はサッカーは皆で協力してやるチームワークのスポーツだからいいが、野球は個人プレーがあり、チームワークのスポーツではないからという理由で禁止した。実際、そういう理由で、中学、高校には野球部もないし、体育で野球の授業もない。皆で協力してやることが大切で、個人プレーはいけないらしい。私は野球は興味は無いが、ルールは知っている。子供の頃は、少しやった。創立者がどこまで、野球というものを知っていたかは知らないが、私はろくに知らないで、偏見でしか見れてなかったのだと思うが、野球はチームワークのスポーツ以外の何物なのだ。個人プレーで目立つ選手をつくっちゃいけない、なとど言っている。それでサッカーは推奨しているが、サッカーだって、センターフォワードなら目立つし、そもそも、どんなチームワークのスポーツだって技術の上手い人と下手な人は出来てしまうものだ。そして技術の上手い選手は目立ってしまうものだ。
生徒に対し、「あなた達は自由学園を良くするために入ったのです」というのが創始者の思想の一つであるが、これもおかしい。学園に入る生徒は中学からがほとんどである。確かに、生徒の意志で入ったのには違いない。しかし、小学校6年生に、そこまでの思想的自己責任を要求するのは酷というものである。そもそも学園の思想は、教師でさえ、完全に理解できる人は少ない。小学校6年生に、その学校の思想を完全に理解して入ったと解釈するのは、無茶である。そんなに頭のいい少年、少女だったら、そもそも学校に入って勉強する必要もなかろう。受験勉強は自分だけの欲望のためのエゴだとして否定し、人間教育とやらを謳っているが、それもおかしい。完全な共産主義思想である。結果、当然の事、生徒は勉強せず、怠けて遊んでいる。遊びとスポーツとファッションと音楽鑑賞にふけっている。

ただこれは男子部のことである。男子部では失敗なのである。

そもそも学園は、女子校として出来たのである。男子部は、あとからつくられたのである。
そして、当時でも現在でも女子部は成功しているのである。女子の特性として、与えられたものに、あまり考えたり、疑問を持ったりせず、順応しやすいのである。そのため、女子部の生徒は、真面目で、今時の女子高生とは比べものにならない。少なくとも私の時はそうだった。真面目に勉強し、協力し合い、勉強し、共同生活していた。お嬢様学校である。
しかし、後からつくった男子部は失敗である。男の気質は女とは違う。男は女のように素直に順応しない。戦闘的であり、反抗的であり、自分の主義主張を持つ。そういう男の気質を考えないで安易に男子部をつくると失敗するのである。目的や競争、報酬があれば、男は戦い、勝とうとするが、それがなく、入学したら付属大学卒業までが、怠けていても保障されているから、結果、怠けるのである。私は、6年間、寮生活をしたが、あそこはソドムの市だった。下級生に対する暴力、サボリ、退廃の吹き溜まりだった。
もちろん、全ての生徒がそうではない。高校三年の後、付属の大学に行く生徒と、やめて他の大学に行く生徒にわかれるのである。もちろん、付属の大学に行く生徒の方が圧倒的に多い。そもそも創立者の思想として、一貫教育を主張しているのである。学園の教育は大学部を卒業することによって身につく、という思想なのである。その思想が徹底しているため、中学や高校では卒業式をやらないのである。やる卒業式は大学部だけである。
ちなみに大学部は文部省の認める正規の大学ではない。法的に言えば各種学校である。ただ教える内容は普通の大学と同じである。卒業論文もある。なぜ正規の大学でないかというと、大学を受験できるのが、高等科を卒業した人だけに限っているからである。他の高校から入学したいと思っても入学できないのである。こういう閉鎖的な条件があると、何をしているか他からはわからず、レベルが低くもなりうるし、そもそもオウム真理教じゃないけど、何をしているかわからない集団ということになってしまう。これでは文部省も大学と認めるわけにはいかない。
生徒は6年の時、選択をせまられる。付属大学に行くか、他大学にいくか、である。
学校の建て前では、付属大学へ行く事が、学園の教育を学ぼうとする者であり、よい生徒であり、他の大学に行くものは、学園の教育を途中放棄した悪い生徒という事になっている。しかし、実際は、将来に対する目的が無く、怠けたいと思っている生徒が付属大学に行くのであり、何か目的を持った生徒は、やめて他大学をめざすのである。そもそも大学部の試験は形だけあるだけで、0点でも入れ、合格率は100%である。落ちて、浪人する人など一人もいない。学校の本音では大学の経営もある。生徒が少なくては、経営が成り立たない。本音と建て前がやたら違う学校なのである。
しかし世間では、学園の生徒を、人間教育とやらを受けて人間性がしっかりしている真面目な、協調性のある生徒と見ているので、大学卒業者と見ていて、就職も大学卒業した者と見ているのである。最も、法的には正規の大学ではないが、内容的には、まあ、正規の大学と同じと言ってもいい。そして、高校ではワルでも大学生になると、さすがに真面目になる人が多いのである。就職も、他大学と同じように、大学卒業者として無事にしている。
ただ、大学部に入ってから、人生の目的を見出す人も割りといるので、大学部を卒業してから、他大学に入りなおす人も結構、いるのである。そう出来るのは、やはり、学園の生徒が金持ちの息子が多いからである。しかし、そんなの時間の無駄である。私は高校の時にこの学校に見切りをつけた。こんな大学には絶対、行くまいと決めた。
人間の人格を自分流に教育しよう、というのは僭越きわまりない考えである。戦前の国家のためだけに命を捨てろと洗脳教育を受けた人が、おかしな思想の人間になったであろうか。高度経済成長をもたらしたのは彼らではないか。

私自信をかえりみて考えると自由学園に入って良かったものがあるか、というと何一つない。

ある人類学者の研究によると、ある虐待されて育った部族の子供達と、うんと愛されて育った部族の子供達とが大人になった時、統計的に人格に有意の差は無かったという事実がわかった。

慶応義塾の創立者の福沢諭吉は、素晴らしい事を言っている。
「時代が進んだら私の思想で、そぐわないものが出てくるだろう。だから時代が変わったら私の今の思想に拘泥するな」

これは素晴らしい思想である。自分の思想に憲法改正を盛り込んでいるといえる。そういう素晴らしい人間や思想であれば、時代が変わっても、嫌がうえでも創立者に敬意を払いたくなるだろう。

一方、自由学園の創立者には、残念ながらそういう発言はない。思想に憲法改正が盛り込まれていないのである。だから時代が変わっても、創立者に敬意を払うため、教師も明治時代につくられた創立者の思想を阿呆のように後生大事に守っているのである。







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